No.01 xyz

「いらっしゃいませ、モクマさん」
モクマは一瞬、戻る部屋を間違えたと思った。
「えっ……え~、どしたん? これ」
「今宵の晩酌は、いつもと趣向を変えてみようかと」
ここは、とあるラグジュアリーホテルの最上階に位置するスイートルームだ。
シックな間接照明が照らすリビングルームの一画に、大人ふたりが並んで酒を楽しめる小さなバーカウンターが設えられていた。その背後の棚には、酒とリキュールの瓶がずらりと並んでいる。その雰囲気は隠れ家のようなショットバーさながらだった。
カウンターの中には美しいマスターがひとり。彼、もといバーテンダー姿のチェズレイに促され、モクマはスツールに腰掛けた。
凝り性の相棒は、モクマが不在のうちに、スイートルームの一画に見事なバーを作り上げてしまっていた。今日はもともと作戦成功の褒美と称して晩酌の約束をしていたが、まさかこんなサプライズを仕掛けられるとは。
「お前さん、バーテンなんてできるの?」
「ええ。以前、情報収集のためにバーのマスターに変装したことがありまして」
「なるほど。裏の情報仕入れるにゃもってこいの仕事だもんね」
「客として入り込めれば良かったのですが、なにぶん下戸ですのでね。というわけで、一杯いかがですか?」
こちらが本日ご用意できるお酒です、とリストを手渡される。棚に並んでいるウイスキーやワインの銘柄と、カクテルの名前が一覧になっていた。
カクテルの名前の横には、ご丁寧にナンバーが振られている。『BARチェズレイ』のカクテルメニューは全部で51種類。ベースの酒やリキュールの都合か、定番どころが多いようだった。
「おっ、いいねえ! せっかくだし、たまにはカクテル飲んじゃおっかな」
「何にします? 宜しければ、おすすめをお作りしますが」
「それにしよう。お店のおすすめはハズレがないからね」
「かしこまりました」
一礼したチェズレイは、氷を敷き詰めたコリンズグラスの中で、酒とジュースを優雅な手つきでステアする。最後にマドラーを添え、モクマの前に差し出した。
辛口のウォッカに、オレンジジュースの甘みと酸味が加わった爽やかな飲み口。スタンダードなスクリュードライバーだ。
「うん、美味い!」
「おそれいります」
「チェズレイも同じやつ飲もうよ。ちっとウォッカの量減らしてさ」
せっかくの相棒との晩酌だ。一人で飲むのはつまらない。自分用の一杯を手際よく用意したチェズレイと、カウンター越しに乾杯した。
「いやあ、きれいなバーテンダーさんと飲む酒は格別だね」
長い髪をポニーテールに束ねたチェズレイは、カマーベストに白シャツ、細腰を際立たせるソムリエエプロンというバーテンダーのスタンダードなスタイルを取っていた。但し、きっちりボタンを留めた首元には定番の蝶ネクタイがないし、食品を扱うために手袋もしていない。ストイックに見えて、普段の彼よりはどこか抜け感があった。
「お客さんからお酒、誘われたりしなかったの?」
「あの時変装した老齢のバーのマスターは、私と同様、下戸でしたので。無粋なお誘いはありませんでしたよ」
「ああ、そっか」
つまりチェズレイ自身として、こうしてバーカウンターに立つのは初めてだということだ。
「何です、脂下がった顔をして。……次をお作りしましょうか?」
普段の晩酌と同じように他愛ない会話をしているうち、モクマは一杯目のカクテルをあっという間に飲み干していた。「頼むよ」と答えると、チェズレイは半分ほど量を減らしたグラスを脇に避け、小さなカウンターの上に酒瓶を並べた。スコッチとスイートベルモット、そしてアンゴスチュラビターズを一滴。細長いバースプーンでステアするしなやかな指先に、モクマはつい見入っていた。
「そのバーテンのテクってさ、どうやって覚えたの?」
「件のマスターを見て盗みました」
「……つぶさにひたむきに観察して?」
「ま、そうですねェ」
鮮やかな赤褐色の液体がカクテルグラスに注がれる。最後にチェリーが一粒、カクテルピックに刺されてグラスの底に沈んでいった。まるで誰かのハートを一刺しするように。
「どうぞ」
ウイスキーの風味とベルモットの甘みに隠された濃いアルコールが、喉から胸の奥をじりじりと焼いていく。ショートカクテルを一気に飲み干し、チェリーを口の中で噛みしめた。
次は強めの酒を、と思ってはいたが、どうしてロブ・ロイだったのか。その疑問を、モクマは口には出さなかった。
「……お前もグラス空いてるね。俺が何か選んだげよっか?」
「私にですか? ええ、是非」
51種のカクテルが並ぶリストを、モクマは上から順に眺めていく。アプリコットフィズ、サイドカー、テキーラ・サンライズ……。
ーーこれって、つまりそういうことかね?
モクマの頭にふと、ひとつの可能性が浮かんだ。
「そうだなあ……カシスソーダなんてどう?」
「おや、私をお子様扱いなさるおつもりで?」
確かに、初心者でも飲みやすいチョイスではある。けれどモクマと同道するうち酒の味を覚えたチェズレイにとっては、満足のできないセレクトだったようだ。
「ははっ、子どもじゃあ酒は飲めんだろ。んー……お気に召さんなら、キールはどうだい?」
「ああ……フフ、悪くないですね」
俺の分も頼むよ、と言ったモクマのために、ふたつのワイングラスがカウンターに並んだ。
「俺たちの『最高の出会い』に」
「『唯一』の相棒に」
グラスを合わせず静かに乾杯する。キールの軽い飲み口が、すっきりと喉を潤した。
ここでモクマは、自分の考えに確信を得た。
「バーテンさん、やっぱりカクテル言葉もいけるクチなんだ。勉強家だねえ」
「あなたこそ。どうせ女性を口説くために覚えたのでしょうが」
「えへへ、ビンゴ~」
バーで飲むことを覚えた頃、若いバーテンダーから教わった知識だった。モクマにとってはろくに成功したためしなどないナンパの手法だが、相棒から密かに口説かれていたのだとわかれば、浮かれて何杯でも飲めてしまいそうだった。
スクリュードライバーは『あなたに心を奪われた』。ロブ・ロイは『あなたの心を奪いたい』。身に余るほど熱烈な口説き文句だ。
「うーん、いつまでもこうやってお前と飲んでたいねえ」
「光栄ですが、もう次で終わりにしましょう」
「ええっ、まだたったの三杯じゃないの~。もう口説くのはおしまいかい?」
「先程、満足のいく答えを戴きましたから」
「あちゃあ。ゆっくり口説き返すつもりだったんだけどねえ」
とは言いつつも、二杯しか飲んでいないチェズレイの頬が、ルームランプの薄明かりでも赤いとわかることには気がついていた。酔っ払いに酒を作らせ続けるのも心苦しい。
チェズレイはくすっと笑いながら、メジャーカップの液体をシェーカーへと注いでいく。美しいバーテンダーは、シェイクする立ち姿も美しかった。
ショートグラスに、白いカクテルが注がれる。
「どうぞ」
一口飲むと、口の中に広がるラムの風味。オレンジとレモンの清涼感が、甘酸っぱさを引き立てる。どこかほろ苦さも感じるそのカクテルの名前は、リストの51番目に記されていた。今宵の締めにふさわしい一杯だ。
「こんな上等のもん貰っちまっても、俺、今すぐお前のことベッドまで運んだげるくらいしかできないけども?」
「フフ、ご冗談を。その腕で、私に世界をくださるでしょう?」
カウンター越しに静かな口づけを交わす。『永遠にあなたのもの』と囁かれたモクマは、自分だけのバーの主を逞しい両腕でベッドルームへ攫った。
そのカクテルの名前は「xyz」。モクマにとっても、チェズレイにとっても、これが最後の恋だ。