No.02 デート

何かがおかしい。
確かにそう思うのに、何がどうおかしいのかが分からない。仕事のあるなしに関わらず、いつだって体調は万全だ。ごくまれに、力を振るった高揚がなかなか静まらないことや、また気分良く飲みすぎてしまった翌日、酒が残っていると感じることもあるが、今日はそのどちらにも当てはまらない。
体調に異変がないのなら、単に気分の問題なのかと考えてみても、思い当たることはなかった。
それでも、やはり何かがおかしい。
ちらり。また自分に向けられる視線を感じた。
視線。そう視線だ。なぜかは分からないが、今日の俺は周囲からの視線がやけに気になってしまうのだ。もちろん稼業上、常に周りへの警戒は怠らない。だが今は仕事中ではないし、向けられる視線に敵意や殺気が潜む気配もない。
チェズレイの方は、何も感じていないのだろうか。
何気ない風を装い、隣を歩く長身を見上げると、
「どうかなさいましたか?」
真っ白な耳当ての似合う整った顔が、わずかに傾けられる。黒いコートの肩を、白金の髪がさらさらと撫でた。
「や、そういうわけじゃないんだけども」
「そうですか」
チェズレイの様子に変わったところはない。周囲の視線に敏感になっているのは、俺の方だけらしい。
この街での仕事が予定より早く片付き、ぽっかりと空いた数日を、俺たちは短い休暇として過ごしていた。今夜はこれから、チェズレイが手配してくれたレストランで食事の予定だ。
連れ立って歩く街の大通りは、さまざまな光に溢れている。店先から漏れる明かりや街灯、通りを抜けていく車のヘッドライト、街路樹に施されたイルミネーション。そして、クリスマス休暇を目前に控えた人々の顔もまた、街の光と同じように明るく見える。
こんな風景を前にして、自分に向けられる視線が気になってしまうとは、どうしたことかと俺は思う。
そもそも元より、他人の視線を気にするような質ではない。大勢の観客を相手にするショーマンの仕事だって長い。おまけに、どこにいても人目を引く相棒と行動を共にしていれば、隣にいる自分にも何らかの視線が向けられる。警戒すべき視線にも、そうではないものにも、とにかく慣れているはずなのだ。
「モクマさん」
「うん?」
歩きながら顔だけ向けると、チェズレイが言った。
「あなた、緊張していらっしゃるのですか?」
「へ?」
足が止まる。
緊張? 俺が?
ええ、とチェズレイは頷いた。
「先程から、何やら周囲の目を気にされているご様子でしたし、時折、私のことも窺っていたでしょう」
別段、気を張っているという自覚はなかった。だがもしそうだとすれば、それはチェズレイの指摘通り、自分に向けられる人の視線が気になっていたせいだろう。
「……すまんね。周りの目がちと気になってたのはその通りだよ」
「それで、人の視線には慣れているはずなのに、と戸惑っていたと」
「ああ。だから、ひょっとしてお前さんの方も何か感じとるんじゃないかってね」
だが、そんなことはなかった。
体調のせいでも、気分の問題でも、外的な要因でもないのなら、今日に限って人の視線が気になるわけを探るのは、もうお手上げと言わざるを得ない。
「本当に、お気づきではない?」
そう言って俺を見るチェズレイの目は、こちらの方に、気づいて然るべき何かがあるとでも言いたげだった。
「どういうこと?」
「あなたの様子がおかしくなったのは、一緒にホテルを出たあたりからです。ここまで申し上げれば、もうお分かりになるのではないでしょうか」
この短い休暇の間だけ泊まることにしたホテル。出てきたのは三十分ほど前だ。俺はその時の会話を思い出す。

——揃いのコートと手袋に身を包んで……イヤーマフはお気に召さなかったようですが。
——一応ね。もし何かあった時、ほんのわずかでも後れを取りたくないからさ。
——ええ、分かっています。
——予約は十九時だっけ。
——時間までまだ少しありますが、ゆっくり向かえばちょうどいいのではないかと。
——そんじゃ、通りにある店でも冷やかしながら行こっか。
——ふふ。なんだかデートみたいですね。

「デート……」
間の抜けた声が漏れた。なんだかデートみたいですね。チェズレイの言葉を覚えている。
だとしても、いや、まさか。
「ええ。あなたにこんな可愛らしいところがおありになるとは思いませんでした」
知らず目が泳ぐ。
いやいやいや、そんな馬鹿な。
信じたくない気持ちで視線を戻すと、微笑を浮かべたチェズレイが見つめ返してくる。
「や、待って、待ってね。おじさん今ちょっと混乱しちゃってるから」
今日は、予約したレストランで食事をする予定だった。揃いのコートと手袋を身に付け、少し早い時間にホテルの部屋を出た。通りにある店を二人で覗きながら言葉を交わし、あちらこちらに灯る街の明かりに目を細めた。
チェズレイと道を同じくしてから、もう随分と経つ。同じ部屋から一緒に出掛けるのも、レストランやバルで食事をするのも、連れ立って街を歩くのも、もう数え切れないほど繰り返してきた。だから今こうしているのだって、何ら特別なことではない、いつもの二人の日常だ。
なのに。
たった一言、それが『デート』と名付けられた途端に、俺は自覚もなくこんな有様に陥っていたというのか。『何かがおかしい』だって? それは確かに『おかしい』だろう。あんなことで、ただの一言で、まるで調子を狂わせていたというのだから。
「それは、どんな感情なのでしょう?」
すっかり黙り込んでいた俺を、チェズレイの声が呼び戻す。自分でも、どんな顔をしているのか分からない。
「ものすごく……」
「ものすごく?」
「恥ずかしい気持ちです……」
俺は素直に白状する。今更、目の前の男を相手に取り繕う必要もないからだ。
「ふふ。私はとても楽しかったですよ。あのような言葉一つで自意識を肥大させ、自覚もないまま振り回されて戸惑うあなたの姿を見ているのは」
「お前さんには全部、分かってたのね」
「分かっていたというより、途中でこれはと思い当たっただけですが」
「なのに俺の方が全然、気づく素振りもないもんだから、助け船を出してくれたってわけかい」
それには答えず、チェズレイは唇の両端を優雅に持ち上げてみせた。
「デートの続き、エスコートしていただけますか?」
「もちろん、喜んで」
言って恭しく手を差し出せば、それを取ったチェズレイが自分の腕を絡ませてくる。
「デートですから」
「うん。デートだもんね」
互いに顔を見合わせて、声を出さずに笑う。
「じゃあせっかくのデートだし、食事のあと、夜景でも見に行っちゃう?」
「いいですね。そうしましょう」
デートですから。
デートだもんね。
同じ台詞を口にして、ふたたび明るい夜の街を歩き出す。腕を組み合わせ、足取りは軽やかに。なにせこれは、俺たちの初めてのデートなのだ。