No.13 五分以上十分未満

足元から、生ぬるい風が吹いた。風は胸を撫で上げるように通り、最終的に髪を空に捧げるように散らす。風は潮騒の香りを伴って、チェズレイの美しい髪を弄んだ。
モクマは、それをただ見ている。風にたなびく髪と、パラソルの下で物憂げに海を見つめるチェズレイをただ見つめている。
「髪、結ばないの」
「スカーフを忘れまして」
「珍しいね、お前さんが忘れ物するなんて」
「……療養中ですから」
短い会話の後、再び沈黙が訪れる。間に響くのは波の音だけで、他に誰も邪魔をするものはいない。ここは静かだった。どうしようもないほど二人きりだった。
チェズレイが見つめる先には白い砂浜がある。誰の足跡もついていないような純白の砂が遠くまで続いている。遠くまで、人の気配は無い。モクマはチェズレイの視線をたどりながら、今は包帯でその白さを隠している肌に触れた。
「どうかしましたか」
「ちゃんと治りますようにっておまじないだよ」
モクマのそれと比べると、あまりにも細い両腕。いつかの日、モクマを担いだ腕。ヴィンウェイでのあの日、ついにチェズレイからは伸ばされることはなかった手。
前腕から指にかけて指でなぞる。布地、肌、布地、布地。痛々しい傷は白く隠されているが、それ故に口惜しい。あの場に自分さえ居れば、この美しい男に不必要な装飾など一つだって付けやしなかった。
「次は頼ってくれるね」
「さァ、どうでしょう」
柔らかい言葉尻が答えを教えてくれる。チェズレイが思い知ったように、モクマという男は大変に義理深く、また執念深い。もしもチェズレイの心がもう一度凍って、その声色が嘘になっても、チェズレイがただ独りで危機に陥ることはもう二度と無いだろう。
「チェズレイ」
名を呼ぶ。滑らかで、余韻が美しくのびやかに響くその名を。
「何でしょう」
返事が返ってくる。当たり前に思えることが、今は何より喜ばしい。
「海は綺麗かい」
ここへ来て、チェズレイがずっと見つめている海。青く、碧く、眠るように穏やかな海。
「えェ。それはもう。ずっと見ていたいほどですよ」
そう言いながら、チェズレイはモクマの方へ振り向いた。
「そりゃ、よかった」
パラソルの外で揺らめく陽炎が砂上に立ち昇る。外の日差しが強くなってきた。
「もう正午でしょうか」
「お天道様も天辺にある。そろそろだね」
「ねェ、モクマさん。私……」
チェズレイの手が、モクマの指に触れた。掌を合わせるように持ち上げられて、細くしなやかな指が、太く筋張ったたくましい指と絡まる。
「まだ戻りたくないと言えば、あなたはどうなさいますか」
チェズレイは療養中の身だ。その容体から外出が可能な時間が決められている。その刻限は正午までであり、その時刻が迫っていることを足先まで短くなったパラソルの影が告げていた。
モクマは掌から伝わる熱に浮かされそうになりながらも、どうにか冷静でいられるように熱情を抑え込んだ。熱に浮かされるのは、チェズレイが万全な状態になってからでいい。
「……海は逃げないよ、チェズレイ。お前が元気になってから、また見に来ようや」
日差しが二人の世界を侵食して、ついには足先を焼く。無遠慮な日差しを避けるようにモクマは立ち上がった。
「まったく、真面目な事です」
「他ならぬお前のためだからね」
モクマがエスコートするように手を差し出すと、チェズレイはやれやれといった様子でその手を取って立ち上がる。
「過保護な事だ」
「過保護ついでに手を繋いだまま行っちゃう?俺はそれでもかまわんよ」
「素敵なお誘いですが、遠慮しておきます。私の脚はこの通り、十全に動きますので」
もうずいぶんチェズレイの怪我は良くなっているようだ。立ち上がり方からしてもそれがよくわかる。
先に日陰から出たのはチェズレイだった。ハイコントラストの景色がチェズレイを白く染めて、こんなに熱い夏の日なのに、どこか寒い日の雪を思い出させた。しかし雪花の幻想は頬を伝う汗で溶け、容赦のない日差しはモクマを日向へと誘う。
「フフフ、戻りたくないのはあなたもなのでしょう」
パラソルの下から出てこないモクマを見て、チェズレイは嬉しそうに微笑んだ。それだけで満足だというように笑うので、なんだかモクマの方がわがままを言ったような雰囲気になる。
「そりゃあね。完全に二人きりなんて、久しぶりだったじゃない」
北西に見えている病院への帰路を歩み始めたチェズレイについて、モクマも歩き出す。
「こうも帰り道が短くては情緒のかけらもありませんね」
「そうだねぇ」
十分も歩けば、病院についてしまう。一歩一歩、進めば進むだけ人の気配が増えて、車の音や話し声。音も増えていった。この感覚はモクマを、現実に帰ってきたような不思議な気持ちにさせた。
病院に戻って来た時、時計が指していた時刻は十一時と五十一分だった。
「なんとか十二時前には戻ってこられたね」
「あァ、モクマさん……」
「どったの?なんかご用命?」
モクマは軽い気持ちでそう聞いたが、病室へ戻りながら、振り向かず最後に発したチェズレイの一言に息を呑んだ。先程抑え込んだ熱情が、波のように喉元に押し寄せた。

「あと九分は、共にいられたではありませんか」