はくはくと開閉する口がモクマに向けられていた。大きく縦に開かれた薄い唇の奥、艶かしい粘膜がモクマの視線を釘付けにさせる。
白い身体が不随意に跳ねる。細長いシルエットが波打つに合わせて無色透明の飛沫がモクマの頬へ飛ぶ。
溺れるように喘ぐ魚はモクマに乞う。
「おはよう」
モクマが腰を屈める。近づく気配に眼下の生き物は喜び、顔を上げた。
モクマは口を広げて待つ彼の求めて止まないものをひとつ落とす。
──ぁ、モクマさん……
「こちらに居ましたか」
背後から声をかけられて、びくりとモクマの肩が跳ね上がった。近づく気配へ振り返る。
「チェズレイ!? お前さん、付いてきたんか」
相棒が朝陽を背に受けて立っていた。早朝とはいえ気温と湿度の高いこの国の中にあって、彼はきっちり長袖のシャツをまとい、身体のラインに沿った長ズボンを履いていた。対するモクマは、半袖のポロシャツに短パン、ベランダに転がっていたサンダルをつっかけてきただけの風貌だ。
ちょっと散歩に出てくるだけのつもりだったので、チェズレイの登場は想定外だった。第一、モクマが出かける時点では未だこの青年はベッドに横たわっていたのだ。
「朝食のパンを持ってどこに行くかと思えば……」
チェズレイがあたりを見回す。
どこもかしこも綺麗に整えられた美人さんが立つには、いささかこの地は粗野過ぎる。だからこそ、モクマはより彼の登場に驚いたのだ。
まさかチェズレイがこの沼と呼ぶに近しい野池にやって来るなんて。
足元は舗装されていない湿った土。木の柵で申し訳程度に囲われた池の周りは雑草が伸び放題。苔むした湿地の匂いが濃い。まさに手入れの施されていない荒れ地だった。
「私をさし置いて、こんなところで逢い引きとはヒドイですねェ」
「あ、あいびき……!?」
チェズレイの口から飛び出てきた言葉に飛び上がるほど驚いてしまう。その拍子に手にしていたパンくずが空中を舞った。重力に引かれたそれは沼池の中に沈んでいった。
すぐにバシャバシャと水飛沫が上がる。餌に飛びつく影がいくつも現れた。
「その相手、鯉だけども?」
コイが口を開いてパンくずを飲み込んでいた。
モクマはこの地に拠点を張って以来、足繁くこの池に通っていた。散歩コースに組み込まれた池の中にたくさんのコイが泳いでいるのを見つけた時は感動したものだ。以降、コイへの餌やりが最近のモクマの趣味になっていた。
起き抜けに食卓からパンを奪い、楽しそうな顔で外へ出掛けるモクマの姿をチェズレイはどう見ていたのだろう。
(昨晩潰しちゃったからてっきり寝入ってると思ったんだが、声をかければ良かったな)
ポリポリと頬をかく。
チェズレイは僅かに膨れ面になっていた。拗ねている。よく見ると、頭頂部の髪の毛がいつもより乱れていた。珍しく寝癖のようなものが見える。身だしなみに気を遣えないほど慌ててモクマの後を追ってきたのだろう。チェズレイ曰く浮気現場を抑えるために。
(こちとらお前さん一途なんだがねえ)
「お前さんもコイに餌やってみるかい?」
「結構です。敵に施しをやる趣味はありません」
「はは、コイ相手にカタキと称するのなんてお前さんくらいなもんだ。まあ、ちょっとだけ見ていきなよ。面白いからさ」
そう言ってモクマは袋から食パンを取り出し、細かく千切っていった。柵の上からパンを落とす。
再びモクマの眼下でコイが口を開閉して、パンを飲み込んだ。粋の良い食べっぷりは見ていて壮観だ。
隣に立ってモクマの餌やりを見守るチェズレイは、真顔だった。その視線はじっと水面に注がれている。
「憐れなものですねェ。気まぐれに降り注ぐパンを求めて口を開けて待つことしかできない。私がコイならば、水面を叩いて飛び上がりモクマさんの手首に噛みついてパンごと強奪してみせますよ」
「それはなんかもうコイじゃなくて別種の生物だねえ。釣り上げて『チェズレイ』って名前付けてくっちまおうか」
「フフ、人の姿で良かったですよ」
「ほんとにねえ」
軽口を挟みながら、モクマはパンの袋に手を突っ込んだ。その手首をチェズレイに掴まれる。
「ストップ、モクマさん。鯉に胃袋はありません。餌を与えすぎれば消化不良となる。彼らは我々のペットではない」
「それもそうだ」
チェズレイの忠告にモクマは素直に従った。パン袋の口を縛って、立ち上がる。
チェズレイは既に歩き始めていた。真っ直ぐ家路へ進む背中へ呼びかける。
「朝メシ、リクエストあるかい?」
次は我々の腹を満たさねば。
モクマの問いに対して、チェズレイは微笑みかけた。
「では、炊きたての白米に、濃いめの味噌汁もつけてください」
「りょーかい。えーと、豆腐はあったかなあ」
ほかほかの朝食メニューを妄想しながら、モクマは跳ねるように地を蹴った。