No.30 恋の悩み知る君は

ひとりチェズレイはホテルの一部屋で考えていた。モクマは今、急遽予定に入ったニンジャジャンショー出演のため、近くのショッピングモールに出ている。
敵対組織を殲滅し、この場所を己の影響下に置くにはどれが最善策か考えている筈だったのに、隣に居たモクマがいないだけで脳内がモクマの真摯な瞳や愛に溢れた言葉のひとつひとつが反駁される。
この様子では最善策どころか案さえも産み出せない。早々と切り上げるとチェズレイは隣のリビングルームにあるピアノに向かい合い、突っ伏した。長い金糸のような髪が黒い鍵盤蓋を流れていく。
こんなとき、モクマがいたら悩みは解決するだろうしそもそも原因がモクマにあるのを考えると所謂恋人のしそうなことはまだ縁遠い
『チェズレイが本当にしたいと思うまでキスしないからね。それだけおじさんはチェズレイのことが大事です』
手も繋ぎ、抱き締められ、告白され、親に紹介までされたのにと思うとキスの遅さにチェズレイはやきもきする。
はあ。一つ息を吐き、チェズレイは身体を起き上がらせると鍵盤蓋を開き、音を鳴らす。甘く奏でる旋律にチェズレイは思いを馳せる。モクマとのキスはどんなものか。バードキスか、それとも不慣れなキスか。それとも母のようなキスか。
それとも、キスもしてくれないか。
チェズレイの視界が昏くなっていく。知らず知らずのうちに自己催眠を掛けていた。
「チェズレイ」
モクマの姿が現れるもののキスをしてくれない。
『慌てなくていいよ』
「慌てていません、私はあなたとキスがしたい……愛しているのに……いつまで待てばいいのですか」
覚醒してしまった。不完全な導入だから仕方ないとチェズレイはもう一度息を吐くと弾いていた楽譜を変えた。
ピアノ曲ではない、覚えた当初は全く意味の分からなかったオペラのアリアを。オペラハウス関係者に近付くために覚えた曲が、今なら判るかも知れない。

歌いながらチェズレイは思う。私は思春期の少女ではないのです。あなたと年が少しだけ離れた恋を知らない人間なのです。
オクターブを下げ、チェズレイは歌う。
母に褒められた金糸雀のような声はもう出ない。
心を込め、感情を乗せて歌う。
この声がショーから戻ってこないモクマに届けばいいのに――
「チェズレイ」
こえがした方を振り向くとチェズレイの唇がモクマに奪われた。
軽く啄むようなキスに離すまいとチェズレイはモクマの頭を掴もうとするが、モクマの手が先にチェズレイの両頬を包んだ。
モクマの熱が入り込んでそれだけで身も心も蕩けそうになってしまう。嫌悪感が走るかもと思っていたのに、歯列を割り、舌を絡め合わせても快楽ばかりが襲ってくる。
段々と視界が白けてきた頃にモクマはチェズレイから唇を外す。息も絶え絶えになったチェズレイはその身をモクマに委ねていた。
「ずるいです……いつからいましたか?」
「自己催眠かけてたでしょ? キスがしたいって言った頃にはもう戻っていたよ」
「だからそれが下衆って言うんですよ……」
「ごめんね」
モクマは啄むようなキスを何度もチェズレイの唇に降らせたのだった。