No.04 星座の名前

「私、あなたに恋をしたようです。……と、言ったらどうします?」
月の無い夜だった。
日に日に欠けて身を細くしていった光が不在であっても、夜空は決して寂しいものではない。寧ろいつもの明るさが無いからこそ、星々の光を愛でるにはいい機会だった。部屋の明かりを消して、ベランダから二人で夜空を臨む。高層階なので地上の光や騒音もここにはほとんど届かない。手を伸ばせば届きそうなほど近くに星の光を感じながら、ひとことふたこと言葉を交わした後だった。チェズレイが突然そう言ったのは。
「こ……?」
「恋です。魚のことではありませんよ」
口調はにこやかだがとぼけるような発言を言う隙は与えないとでもいうように、釘を刺された。
「お前が?俺に?」
「はい」
「何かの例え話?」
「いいえ」
今夜は晩酌をしていない。酔狂を言っている様子もない。詐欺師と呼ばれる相棒の青年は、こちらの反応を楽しそうに眺めながら整った顔をほころばせている。
「念のため訊くけど、お前の言う『恋』って、どういう感情のこと?」
「そうですね……胸踊る執着、とでも言いますか……。四六時中あなたのことで頭がいっぱいで、あなたのことなら何でも、全て知りたくなって、あなたといつもいつまでも一緒に居たいと、そう希うことでしょうか」
まるで明日の予定を読み上げるかのような、何気ない口調であった。
夜風が悪戯にさらった長い髪を直す青年の口元は、いつもと変わらず、穏やかな笑みの形をしている。
「……それ、今までと何か変わるの?」
「変わりませんね、なにも」
そう、変わらないと思えた。モクマとチェズレイは紆余曲折を経て絆を結んだ相棒で、チェズレイの方はモクマに対する執着をずっと以前からまったく隠そうとはしていなかった。
「お前、ミカグラに居た時からそういう感じだったもんねえ。最初は俺のことが許せなくて始まったんだろうけど」
「ええ、仰る通りです。今やこの制御し難い感情はすっかり私の一部で、どこまでも重い、私の財産です」
同道を決めた直後、ミカグラでのショーの舞台袖で頬を染めてそう呟いていた姿を思い出す。あれから2年は経っているが、彼の言う財産はどのくらい重さを増したのだろう。
そして、自身の濁りは。
「……うん、ありがとね。俺も同じかな。最初は正直お前のことは苦手だったんだけど……」
あの頃は、とにかく裁かれ死ぬことを望み、それを言い訳にして自身の本当の気持ちから目をそらし続けていた。だから、断罪するのであればともかく、モクマの心の奥底を暴こうとするばかりのチェズレイに困惑した。けれど、彼は俺に対して抱えきれないほどの執着と情熱をまっすぐに傾けてきて、それが羨ましいやら眩しいやら。そしてあの鍾乳洞の一件以来、モクマの中には肩の傷などよりずっと濃く彼のかたちが焼き付いた。おかげで生まれ変わることが出来たが、同時にチェズレイとは一生離れられなくなった。契約や、約束の有無は関係なく、である。
「……もちろん、自分からそうしたいと思っての事であり、今はそれが出来る自分を気に入っとるよ」
「……ええ」
「それだけじゃ、不満かい?」
約半年前のヴィンウェイでの一件以来、モクマはチェズレイに一生一緒に居たいからこそ側に居るのだし、彼そのものが自分の幸福であることを折りに触れ言葉と行動に表わして伝えるようになった。
その根源たる感情を定義するのは困難で、必要もないと思っていた。それくらい多くの情が混沌として在り、同時にそれが二人の関係を無二のものにしているから。
モクマが言いたいことは伝わっているのだろう。想定内だとでも言いたげに微笑んだチェズレイは、そのまま視線を宙へやった。
「そうですね。不満に思うことは何もない。ただ、最近、あなたと抱き合った時、無性に、言いたくなる想いがあると気付いたんです」
あなたの事が、好きだと。
独り言のような小さな呟きだったが、優秀な忍者であるモクマの耳には一言一句漏らさず届いた。
思わず、美しい相棒の青年に、一歩近づく。
「それは……」
「好きという言葉が適切なのかは正直わかりません。私のあなたへ向ける感情は、あまりに重く濁っていて、一言ではとても、言い表せない……あなたもまた、そう思っておられるように。それでも、あなたによって私が満たされた、と感じた時、どうしても言葉にしたくなるんです」
「チェズレイ……」
名前を付けられない感情という濁りを抱えたまま、モクマとチェズレイは日常的に身体を重ねるようになっていた。それは、相手を知りたい気持ち、暴きたい気持ち、互いの人生に関わり合いたい気持ち……そんなさまざまな感情がいつの間にか波のように満ち、結果、ふたり抱き合うことで重さが増して抱えきれなくなりそうな情を一緒に抱え直せる、そんな気がしたからだ。
大切な人をただ抱きしめたいという、そんな原始的な衝動からだったのかも知れない。
そんな状態だから、感情に、関係に名前をつけることそのものがそぐわないものであるように感じていた。
「私たちの関係は、この濁った情と同じように様々な関係が混ざったもの。けれど、その中からひと握りを取り出して、見せ合うのも悪くないのではないかと思うようになりました。そう、例えば……夜空の無数の星々を意図的に結んで、星座という名前をつけるように」
そう、恋とはなんだと問うたときチェズレイが答えた感情、それは既にお互いの中に存在しているものなのだ。普段は混沌とした濁りの中に、確かに在るもの。
「生きている限り、--いえ、その先も……私はあなたを求めて止まないことは確かなのだから」
街灯の明かりからは隔絶され、無数の星だけが瞬くこの場所で、歌うようなチェズレイの声は、切なく思えるほど澄んで、まっすぐにモクマの心へ届いた。
ふと、かのヴィンウェイの地でタチアナ・バラノフと対峙した時のことを思い出す。
真実を打ち明けられたあのとき、あまりの衝撃で、せいぜい呻くことしかできなかった。しかし、確かにチェズレイへ向けて言いたくなった言葉が、想いがあった。
結局掴みきれず形を結ばぬまま、ずっと自分の中にたゆたっていたもの。
彼の存在を幸福だと思う理由。
「今、わかったよ。チェズレイ」
三歩ほどあった彼との距離を、一息に詰める。
上背のある彼の身体を、思い切り抱きしめた。
「チェズレイ……お前が好きだ」
なるほど、確かに言いたくなるな。口にした後で、他人事のようにそう思った。
抱きしめたチェズレイの身体が愛おしいと、あたたかいと、ずっとこうしていたいと願う。
しばらくの後、チェズレイが紡いだ声は、彼らしくもなく微かに震えていた。
「言ってみたいと、思っていましたが……言われて、こんなに嬉しいとは……想定外でした」
「……そうかい」
嬉しいと思ってくれるのか。チェズレイの素直な言葉が、じんわりと胸に、全身に沁みる。
見上げ、そっと頬に手を伸ばせば、上気した頬の熱が伝播した。何度見ても見飽きない青年の瞳は甘く揺れていて、それがたまらなく愛おしいと思った。
意思を持って頬を包み込むと、彼は泣いているような、怒っているような、不器用な微笑みの形に顔を歪め、静かに顔を寄せてくれる。
長い白金色の髪に世界が覆われて、チェズレイのことしか見えなくなった。
ついに互いに瞳を閉じて星のひとつも見えなくなっても、ともに形にしたふたりの星座は、いつまでも闇に輝いていた。