No.05 素敵な恋を、おめでとう。

夏の強い日差しが大分和らいで幾日か。
朝陽が心地良く窓から射し込み、白いレースの影が床でゆらゆらと踊る。窓を大きく開ければ小鳥の囀りでも聞こえるのかもしれない。
しかし、寝覚めの脳と肌にこのところの朝風は少々冷たく、私はキッチンの壁に備え付けられた換気用の小窓を薄く開けるに留めた。

20代の頃は、起きてすぐに重めの動力を要する活動をすることも厭わなかった。
裏社会を牛耳ることを目指し、世界征服を夢と掲げ、相棒と共に地球中を駆け抜ける喜びに満ち溢れた日々。
毎日が躍動的で、毎日が新しくて、それはそれは景色がきらきらと輝いていたものだった。

それが、今はどうだろうか。
今世はまだまだ続くものの、夢に掲げた世界征服はほぼ成し遂げ、私は愚か相棒ですら自ら現場に赴くことも殆ど無い。
ファミリーは日に日に大きくなり、優秀な構成員も増えた。
今は私たちが少しばかり指示や助言をするだけで、僅かに残った数少ない悪徳組織の芽を摘むなど、雑作も無いこととなった。

では、私は今、日常をどう過ごしているのかと言えば。

鍋を置いたコンロに火を付け、その蓋を開ける。
一晩じっくり出汁に漬け込んだおかげで、具材たちがいい塩梅に出汁色に染まっていた。
この出汁も、こうやって美味しく作れるようになるまで随分難儀したものだ。
私の故郷や、所縁ある土地の料理ではない。これはミカグラの、マイカの里で食べられてきた郷土料理の味付けである。

黄金色に輝き、しっとりと風味が滲む出汁に仕上がるまで、赤黒い液体を作り続けた。ソイソースが多すぎるのだ。
知識としては持ち合わせていたものの、この赤とも黒とも形容し難い液体を料理の味付けとして用いたことは、今まで無かった。相棒と同道するまでは。
彼は必要以上に赤黒く染まった液体を味見すると、決まって、

「うん、も少し薄めて黒糖とみりんで甘辛くしちゃおう。蜂蜜も合うかも。美味しくなるよ」

そう言って極上の料理へと変えていった。
これがまたポークやチキンとよく合うのだ。
甘辛く仕上がった出汁で煮詰めれば、それらはほろほろに煮崩れ、私が今までに体験したことのない味わい深いとなる。
舌の上で蕩ける肉料理。これも彼の慣れ親しんだマイカの里で作られるものに近しい味だそうだ。

出汁に入れるソイソースが多すぎる。加減がわからなくて、私は何度も失敗した。
その度に彼はその失敗を成功へと成し変える。まるで魔法の手。
私は失敗、もとい、少し想定外の成功を繰り返し、理想の黄金の出汁を作ることを会得した。

一口大に切った野菜。鶏肉。一晩じっくりと出汁に漬けて、再び火にかける。
すると、隣のコンロで強火にかけていた土鍋がじゅわじゅわと鳴り出した。
火を消して10分蒸らす。米を土鍋で炊くことを私に教えたのもまた、寝室で眠る彼であった。

朝食をこうやってゆっくり取るのも、少なくとも20代の頃では記憶に無い。
朝、目一杯胃に物を詰めてしまうと、何となく調子が悪い気さえした。パンも、ベーコンも、目玉焼きも、この胃には重すぎる。
彼の淹れるカフェオレこそが極上の朝食であったが、次第に力業でターゲットと対峙する機会も減り、30代後半にもなると有り余る体力と気力と時間は、どんな朝食ならば私が口にできるかを二人で試行錯誤することに当てられた。
結果、薄味のスープから始まり、じっくり火の通った油の使わないもの、そして段々と彼の作る、温かくて軽いものであれば相応の量を食べられるようになった。

諜報や潜入を重ね、ターゲットである組織を壊滅させる。
時には爆発に巻き込まれ、火柱に大いに咳き込み、銃弾を浴びた。
そんな日常は、彼が私の隣に在る日々は、私にとって目の前の景色がすべて新鮮で、美しく、興奮と喜びに溢れていた。掛け替えのないものだった。

そして今は。寝室でぐっすりと眠る彼と穏やかに時を紡ぎ、二人で時間を気にせず朝食をとって、相棒の好む料理を覚え、そしてこうやって。

「モクマさん。モクマさん」
「んぁ……おはよ。ごめん、寝こけた」
「構いませんよ。お誕生日、おめでとうございます」

こうやって、穏やかな時間を、そして彼の誕生日を、彼の隣で過ごせるこの空間こそが、きらきらと輝いていて、それこそ20代の頃よりも更に眩しくて、悪党を自称する私には優しすぎるくらいであった。

「すんごい、なにこれ。いい匂いするー」
「せっかく美味しい出汁の作り方を覚えたんです。それに私も、じっくり火を通した薄口のものであれば朝食でも食べられると、あなたといて気付けました。新しい歳の最初ですから、美味しくて優しいものを、と」

ベッドに腰を下ろすと、大きな欠伸をしながら身体を起こした相棒がくんくんと鼻を鳴らした。
米の炊ける香りや出汁の匂いが家中に広がっていることだろう。
彼はへらりと破顔して、ありがとね、と返した。
出会った頃より深い皺が、笑って細められた目尻に刻まれている。

若い頃は実年齢にそぐわないグレイヘアが目を引いたが、それも年相応になった。
顔を寄せその額に口付ければ、若い頃より濃くなった、渋くて男臭い匂いがふわりと香る。
ひとつひとつ、歳を重ねるごとに変わりゆくそれらがすべて愛おしい。
彼は、私のきらきらと輝く景色、きらきらと輝く世界、そのものだった。

「さあ。顔を洗って、歯を磨いて。一緒に朝食を頂きましょう」
「嬉しいねえ」

洗面に向かう彼の後ろ姿。
もしかしたら出会った頃より少しばかり小さくなっているかもしれない。
日々鍛錬を怠らないものの、30代で体力と筋力のピークだったあの頃に比べたら、これも必然だ。

かくいう私はどうだろうか。
歳ももう40、とうに中年である。それこそ彼と出会った頃に比べて年相応に衰えた。
皺も白髪も、傷だってある。それでも、

「朝起きてお前が隣にいてくれることが、最高の誕生日プレゼントだよ」

そう振り返って笑う彼は私にとって幸福そのもので。
プレゼントなど、私の方が贈られているような錯覚に陥る。

「フフ。おいくつになりましたか?モクマさん」
「どーだかねー。数えちゃいないけど、俺の代わりに律儀者の相棒がきっと数えてくれてると思うよ」

ばしゃばしゃと顔を洗う音がする。
豪快な音はいつものことで、きっと周りに水滴が飛んでいることだろう。
洗面を済ませたあと、床や周りを綺麗に拭き取るように私が眉を顰めたのは、同じ道を歩み始めてすぐのこと。
もう何年も前のいい思い出だ。

襟ぐりをびっしょりと濡らし、ごめんごめんと床を拭く、出会った頃の彼の姿が脳裏に浮かぶ。
ふと表情が弛緩するのを自覚して、思い出さえもきらきらと輝いているのだと思い知る。
改めて、過去も、そして未来も、彼との毎日が私への掛け替えのない最高のプレゼントなのだと、少し小さくなった彼の背中を見ながらぼんやりと考えた。

「51歳ですよ。ご自分の歳くらい、ご自分で数えてください」
「俺はいいよ。数えてくれる相棒と、死ぬまで一緒だし」

腰を上げて再びキッチンへと戻る。
彼が歯を磨き終わる前までに、マイカ式の盛り付けを済ませる算段だ。
そしてテーブルに着いた彼の齢を刻まれた手を、同じように歳を重ねた私の手で取って、こう言ってやろう。

死んだあとも、その次も、ずっと一緒ですよ、と。