No.09 戀

「お前さん、それなにしてるんだい?」
す、と突然背後から腕が伸びてきて、思わず震えそうになった体を何とか抑えた。午後4時。そろそろ夕暮れの色が空を覆い、夜へと変わる狭間の時間帯。モクマさんのお母様の住まいからそう離れていないホテルの一室。ようやく半日外出許可のおりた体を、それでも半強制的に休ませられていた時のこと。私の首の横を通過したモクマさんの手が、私の手を包んで自分のほうへ引き寄せる。抵抗してみたが私の力で勝てるはずもなく、早々に諦めてなされるがままにしておいた。モクマさんの頭が私の肩口に埋まり、甘えるように額をすり寄せてくる。思わず首を傾けその頭に頬ずりして、――ふと我にかえり、驚いた意趣返しにわざと言葉に棘を持たせてみた。
「モクマさん……仮にも外敵の想定もないこの場所で、私相手にまで気配を消さずともよろしいのに」
「はは。すまんね。癖になってるんだ、気配消して歩くの」
どこかで獣の吠える声が聞こえるようなセリフを呟いて、モクマさんの頭がもぞ、と動いた。療養のために、と買った首元の詰まっていない服では髪がフワフワと触れてくすぐったい。そのままモクマさんの指先が私の手を辿り、自由のきかなくなった右手に握られていたペンをなぞった。その感触で何であるかを察したのか、頭を下げたままモクマさんの声が耳の近くで響く。
「あれ、書き物をしてたんだ? 珍しいね、いつもタブレットでポチポチ~ってしとるのに」
「……ええ、手に覚えさせるほうが定着しますから」
「覚える? 何を?」
私の腰掛けるソファの背から抱きしめるように肩に擦り寄ったまま動かないので、未だ顔の見えないモクマさんの視線がそれを捉えないよう、机の上に乗っていた書類を手で覆って隠した。
「秘密です」
「ええ~。教えてよ~」
「知りたいのであれば、そろそろ私と目を合わせて話していただけますか?」
ほんの少しの沈黙のあと、首に寄っていたぬくもりが離れた。そして後ろの気配がソファに沿って回ってきて、隣に収まる。中途半端に着られたシャツはボタンが雑かつチグハグにとまっていて、辛うじて全てはだけてはいないがだらしないことに変わりはない。しかしそこへ指摘するほど、モクマさんの着こなしは既にあまり気にならなくなっていた。
「おはよう、チェズレイ」
「おはようございます。朝の挨拶をするには相応しくない時間帯ですが」
「眠りから覚めたらおはようって言っちまうよね。それで? 目を合わせたけど、答えを教えてくれるかい?」
つい先程まで寝室で寝こけていたせいか、声が甘い。きっと、目覚めて私が隣にいなかったものだから、慌ててここへ追いかけてきたのだろう。まだ少し動作が緩慢な相棒に微笑んで、私は隠していた手を離して「どうぞ」と示した。連なった書類と白紙の束を手に取ったモクマさんがそれを覗き、首を傾げる。
「…………漢字の書き取り?」
「ええ。お母様に教えていただきまして。マイカの言葉はあれから一通り覚えましたが文字を書くという必要はありませんでしたし……特に、漢字はなかなか複雑ですね」
圧倒的に画数の多い文字だ。それも無限に思える数が存在していて、同じ発音の文字でも一つ一つ意味が異なる。特異な言語だ、と改めて思った。その束をパタパタと揺らしながら、モクマさんが苦笑する。
「確かに、こんだけ1文字に線を重ねる言葉も少ないか。お前さんでも苦労することあるんだね」
「重ねた線の数だけ思いが乗るようで、素敵だと思いますよ」
私の言葉に、モクマさんがゆっくりと手元の束から私へと視線を移した。そして人好きする柔らかな笑みを私へ向ける。
「……思いを乗せてたのかい? ここに」
「……」
ここ、と言いながら指し示された文字に、私は笑みを返した。
「……ええ、乗せていました。線の一本一本に。それでも足りない感情の一部を」
「……へえ。嬉しいね。ねえ、これもらってもいいかい?」
「ただの書き損じですよ」
「それでも」
私の返答を待つ前にいそいそと懐にしまったモクマさんに笑って寄りかかった。目を閉じる。暖かな空気を吸い込むと、胸に花のような香りがジワリと広がった。モクマさんは私の指を指先で弄りながら、先ほどと逆に自分の肩に乗る私の頭にこてんと頬を寄せる。そして小さく声を落とした。
「ところでさ」
「はい」
「何で旧字で練習したの?」
パチ、と目を開けた。そろりとモクマさんを見上げると目が合う。どんな自白剤も敵わないその視線は、誤魔化すことも茶化すことも許さない。なので私は、そのまま舌を動かした。
「そちらのほうが、好ましかったので」
「理由を聞いてもいいかい?」
空気すら揺るがさないような、優しい声が体に染みる。私の指を触っていたモクマさんの手の中で自分の手を返して、指を絡ませた。きゅ、と握ると、モクマさんも握り返してくれる。「フフ」と思わず漏れた声のまま声を紡いだ。
「……糸と糸を引き合って、求め合う気持ちを表している、と聞きました。もつれあった糸は容易に解けず、心が乱れるほど強く乞い願うものだから、と」
「そいつは……、気にしたことなかったよ。そういう成り立ちなんだね」
「フフ。覚え方も教わりましたよ。『いとしいとしといふこころ』」
「やあ、バッチリだ。それなら俺も知ってるよ」
私の頬にモクマさんが優しく触れる。そのままモクマさんのほうへと視線が誘導されて、先ほどとは違う視線が私を射抜いた。思わず目線を降ろしてしまった先にある唇が息を吸う。そして動いた。
「……”乞い願う”、かあ。言い得て妙とはこのことだ。ちょうど同じ音も入ってるし」
「……”濃い”も同じ音でしょう? 改めて、今後とも”濃い”お付き合いのほどを。モクマさん」
「はは。……あのさ、チェズレイ」
「はい」
「好きだよ」
目を見開いたまま数秒、動けなかった。その間、視界いっぱいにニコニコと私に笑みを送るモクマさんがもう一度同じ言葉を送る。
「お前ともつれた糸をもう二度と解くつもりはないんだけど、いい?」
「…………。ええ、……それは、私も」
そうだ、と伝える前に体全体が包まれる。全身で感じる体温に、ジワリと目頭が熱くなった。
「好きだよ、チェズレイ」
「……モクマさん」
「いいよ、無理に答えなくても」
「無理など、」
「さっきの紙いっぱいに、すでにもらってるからさ。形のないものをわざわざ目に見える形にしてくれてありがとね」
手を背中に回して、私は目を閉じた。喉が詰まってしまって、うまく声が出ない。回した手に力が入る。モクマさんのシワの寄った背中側のシャツを引っ張るように強く握り、何とか押し出すように熱い息を吐いた。
「……そういうところですよ、モクマさん。私から声で伝える権利を奪わないでください。もっと私に”乞い願”って」
「……。うん。じゃあ、教えてくれ。その声で」
愛おしい微笑みが、水面に沈んだ。目を閉じては押し流されそうでなんとか留めていたのに、私の左目の周りをなぞるようにした指先が温かくて思わず安堵で瞳を閉じてしまう。頬を伝う雫が拭われ、唇がその指先でなぞられた。目を開いて先ほどよりクリアになった視界で微笑むモクマさんに、私は震える声を奏でる。お互いの体で絡み合いながら、二度と解くものか、と。
「好きです、モクマさん。あなたのことが、……心から」
「……うん。ありがとね」
あァ、本当にただ――あなたに、恋をしている。