No.08 勿忘草

※注意
同道後、モクマさんが一時的に記憶喪失に陥っている描写を含みます。

「…………0点。もう一度どうぞ」
「ええ、これも違うかあ〜」
かれこれ病室の個室で欲しい答えを貰えないまま、三十分はゆうに過ぎていた。
モクマの頭部には包帯が痛々しく巻かれていてどうしても目を引いてしまう。いつもの姿に似合わないそれは頭部に受けた衝撃を物語っていた。しかし、痛みは感じないらしい。当の本人は痛みよりも額を押さえて答えを絞り出そうと必死に頭を悩ませていた。
アーサー、マイク、トム…………あ、ヘンリーとかどう? 違う? と、一人で呪文のようにあれでもない、これでもないとモクマは検討はずれの答えを呟く。
違います、と否定するたびに被りを振った首が痛くなってきた。このままでは落第ですねと笑えればいいのに、言葉が上手く出てこない。
一縷の願いを託すように、もしかしたら次は正解がでるのかもしれないと繰り返していき………先に根を上げたのはモクマの方だった。

「ごめんね、おじさん降参だわ。そろそろ教えてくれんか————君の名前をさ」

『記憶喪失』と、運び込まれた病院で医師に告げられた。「身体機能には異常がなくて幸いでしたね」と、くたびれた白衣をきた男の言葉をよく覚えている。
その日は、いつも通り二人でマフィアの大元を叩き、組織を解体させた所まではよかった。案外歯応えなかったねえ、と笑ったモクマの顔を覚えている。それが自分の知るモクマの最後の顔になるとは思わなかった。
「————ッ………危ない、チェズレイ!」
強い衝撃で地面にぶつかった、否、モクマに突き飛ばされたと理解した時にはもう遅かった。聞こえたのは相手の呻いて倒れる音。それに混じって、ポタリと雫が床を濡らす音がチェズレイの鼓膜を揺らした。
隠れていた敵の攻撃を受けたモクマは、傷を負いながらも反撃で相手を倒していた。記憶と引き換えにして、最後まで優秀な守り手だったのだ。

「————チェズレイ・ニコルズと申します。この名に聞き覚えはありませんか、モクマさん」
「あー、ごめんね『チェズレイさん』」
モクマは頭を掻きながら笑う。その仕草は見覚えのあるものだが、彼の口から聞いたことのない呼び方に息が詰まりそうだった。つくづく病院にはいい縁がないらしい。
「ええっと、俺って………君とどういう関係だったの?」
家族じゃないよねえ、と申し訳なさそうに尋ねる彼の質問が突き刺さる。思わず消毒液が染み付いた病室の匂いに顔を顰めたフリをしながら言葉を絞り出した。
「なんと言えばよろしいでしょうか。大事な相棒であり………仕事を一緒にして………」
「………ああ。そうか仕事仲間か」
ポンと、手を叩いて「なるほどねえ」と呟いたモクマの明るい表情にこちらの眉間の皺が少し和らいだ。少しずつだが、思い出せればきっと自分のこともわかるに違いない。
「そ、そうです。まァ、それだけではありませんが……」
「お前さん、ショーの関係者だったのか」
「えェ、そうです。私はショーの………………………は?」
この男、今なんと言ったのか。
『ショー関係者』という斜め上の言葉に頭がガツンと殴られる。見当違いの答えに言葉を失った詐欺師に、下衆でも相棒でもない男は笑った。
「だって、おじさんはショーマンだからね。ショーマンのモクマ」
忍者でも守り手でもない男は、明るく笑いながら相棒によく知っている名前を名乗っていた。

どうやら記憶を無くしたモクマはチェズレイのことだけではなく、自分が忍びであることも覚えていなかった。ショーマンとして各地を巡っている途中、事故に遭って記憶を無くしてしまったと思っているらしい。
入院中、彼に催眠を施してみたが、無意識なのだろう。腐っても忘れていても身体は忍び。モクマはこちらの深入りを許してはくれず、そうなっては手段を変える他なかった。
「あァ、モクマさん。あの看板に見覚えはありませんか? 最近映画化された作品なんですよ」
「んー、どれどれ……」
身体機能に何も異常がないモクマの退院許可が降りるのにそう時間はかからなかった。部屋に篭っていては思い出すものも思い出せない。何がきっかけになるかはわからないのだ。刺激は多い方が良いだろうと外に連れ出し、二人で街を歩き回ること早一時間。固く閉ざされた記憶の扉はそう簡単には開かず。悲しいかな、今のところどれも不発だった。
「ニンジャジャン………ヒーロー時代劇かあ! カッコいいじゃない」
「えェ、ヒーローショーとして子どもだけではなく、大人にも人気なんですよ」
ピタリ、とモクマは看板の前で足を止める。映画の続編の制作決定という文が書かれていたのをみて、思わずこの場にはいない茶色の髪をした青年の顔が浮かぶ。ニンジャジャンに対して熱く語る彼が、今のモクマをみたらどう思うだろうか。
「すごいねえ。演じる人はアクションが得意じゃなきゃ。おじさん尊敬しちゃう」
モクマが戯けながら、看板を真似してポーズをとる。人差し指を立てるお決まりのポーズをこれで合っているか確認する姿は、決して彼だったらあり得ないだろう。どうやら、これも記憶のトリガーではないらしい。
「今のあなたをみたら、きっとボスは悲しみますね……」
聞こえないぐらい小さな声で、小さく溜息と共に乗せた言葉をモクマは拾う。
「—————————ルーク………?」
チェズレイが俯いた顔を上げると、モクマと視線が合った。ニンジャジャンのポーズのままこちらを笑う彼に驚くと、首を傾げながら口を開く。
「あ、ビンゴ?」
「………っ、モクマさん……あなた記憶が」
「いや、なんか………ニンジャジャンを好きな人はどんな人かな〜って思ったら名前が浮かんで来てね。……そういえば、ルークとは一緒に舞台にも立ったことあったよね。他にも赤い髪した人………そう、アーロン! アーロンもいた」
堰を切ったように話は止まらない。どうやら目論見は大当たりだ。記憶の蓋が開き、BONDの四人で舞台に立ったメテオライトショーのことをモクマは語る。
「フフ、懐かしいですねェ。怪盗殿のワル侍………なかなかいい演技で楽しませてもらいました」
「ああ、楽しかったね。あの時はアクシデントもあったけど…………無事、三人で乗り切ったんだよね。俺とルークとアーロンで」
「—————————え?」
懐かしそうに語ったモクマの記憶の蓋は唯一、チェズレイには閉まったままだった。

拍手と共に賛辞をもらう。欲しいのはそれではないと思いながら、鍵盤から手を下ろして会釈する。
「ニコルズさんってばピアノお上手なんだねえ」
最後の手段も駄目だった。
相変わらずモクマはこちらのことを思い出さず、そのことに自分一人だけが焦りや悲しさを募らせていく。
「………モクマさん、提案があります」
痺れを切らしたのはこちらの方だった。
ここから先、自分の使う方法は奥の手だ。出来れば使いたくなかったが、断腸の思いで男に言葉を紡ぐ。
「………会わせたい人がいるのです。ここから少し遠いですが、私よりも人心掌握に長け、心理学に精通している人物」
———————ファントムなら、きっと。
「恐らく、あなたの記憶を戻す手がかりが掴めると………」
「———————『チェズレイ』、それだけはやめてくれ」
ナデシコに連絡を取ろうと端末に触れた手を、モクマが掴んで阻み、臓腑が震える低い声で提案を拒む。
「モクマさん、あなた」
「あれ、俺なんで………ああ、ごめんごめん。突然、声荒げちゃって。俺も記憶が戻ればいいとは思うんだけど、血が……こう、沸騰したみたいに熱くなってね」
手を離しながら謝る彼との距離は近いまま、モクマは言葉を続けた
「あー、前にその人と喧嘩したりしたのかな。俺、その人に会いたくないみたい」
「………………そう、ですか」
声が張り付いて燻った言葉が喉に詰まる。
一瞬、握られたモクマの掌から悟ったのは身体の記憶。ファントムに会いたくない。会わせたくないという想い。
なら、どうすればいいのだろう。どうすれば、モクマは自分を思い出してくれるのだろうか。
押し黙って俯いたこちらを見ずに、男は独りで言葉を繰り返していた。
「………『チェズレイ』………うん、チェズレイ。ああ、なんかこっちのが言いやすいね」
言葉の響きを確かめるように、何度も名前を繰り返しながらモクマは笑った。
「『チェズレイ』ってとっさに呼んじゃったけどさ、こう胸の中にストンって落ちるんだよね。舌が絡まりそうな名前なのに………誰よりも早く呼べる気がする」
「……………1点。気づくのが遅い」
顔を少し上げて睨むと、嬉しそうに男は口角をさらに上げた。
「はは、やったね。はじめて点数が貰えた。おじさん頑張るから元気出してよ。そうだ、これはお詫びね」
「これは………」
「綺麗だと思って詰んできたんだよね。ほら、記憶を戻す手伝いしてくれてんのに、何もお礼出来てなかったからさ」
一輪、見覚えのある野草が差し出される。
白い花びらのついた可憐で素朴な花。
それはいつぞやのルークからのプレゼントをモクマが見繕ってくれたもの。母の日の記憶。
「私のことを思い出さない癖に………まァ、悪くはありません、50点」
「おお、最高得点じゃない」
「甘いですよ。まだまだ及第点にも及びません。せいぜい精進してください」
「ええ、そんな………さっきと合わせても51点しか…………ない………あ、れ………」
「………モクマさん?」
肩を落として項垂れたモクマの顔が突然固まった。そして、先程と同じように言葉を繰り返す。
「あ、…………ご、じゅう………いち………………、ごじゅういち…………ごじゅういち……」
それは先ほどよりも重く、喉の奥底から声を絞り出すかのように響く言葉でチェズレイの鼓膜を揺らした。
「51………かい………から、………落ちて……、……………チェズレイ………が、庇って……ああ、そうだ俺は——————ショーマンのモクマ・エンドウ。そしてだ……」
真っ直ぐに、こちらを射抜く鋭い視線。どこかへ揺蕩い離れていた記憶の糸を掴んで握りしめた彼は、無事に相棒の元へ戻ってきた。
「—————————ぁ、モクマさ………」
遅くなってごめん、心配をかけてごめんと話すモクマの匂いが花の香りと混ざってチェズレイを包む。強く抱き寄せられ、応えるようにこちらも背中に手を回した。
「おかえりなさい、モクマさん。なかなかどうして………あなたから呼ばれた『チェズレイさん』はなかなかにキましたねェ」
「ほんとごめんて。あー、次こういうことにならんよう催眠をかけくれない。記憶をいつでも呼び起こせるようにトリガーでも作って………って、なんで笑うのさ」
「ご期待に添えず申し訳ありません。ですが、それは不要かと」
真面目な顔をしてこちらの瞳を覗き込むモクマに思わず口角が釣り上がっていく。

「だって、次は私を一番に思い出させてやる自信がありますから」