No.15 親からすればいつまでたっても子供は子供

夏の夜の紺青が、橙色の夕焼け空をゆっくりと侵していく。明確な境目を設けずに、交じり合った部分を淡い紫色に染めながら空を塗り替えていくこの時間は、ひどく穏やかに進んでいるように錯覚さえする。海沿いの道で車を走らせながら、モクマは時折視線をグラデーションのかかった空と海へと移した。両親が――今となっては母親ひとりが暮らすこの島へ到着してはや一週間、この景色と時間を楽しみにしている自分がいることにはとうに気がついていた。
「お帰りなさい」
「うん。ただいま」
ここでのセーフハウスとしてチェズレイが借りた別荘は、リビングに西向きの大きな窓が設置されている。この島でもサンセットの美しさは価値あるものとして売り出しているのだろう。太陽はもうほとんど沈んでしまっている。そろそろリビングの電灯をつけないと、暗くて何もできなくなるだろう。
「これ、おふくろから。作りすぎちゃったから~だってさ」
リビングから続くキッチンに向かったモクマは紙袋に入れられたタッパーを取り出す。母親が調理したのは日が傾く前だったけれども、この気温ではすぐに傷んでしまうから、と一緒に詰め込まれた保冷剤の量に思わず苦笑してしまった。
この島へと着いてからというもの、モクマはこれまでの時間を埋めるかのように母親の元へと足繁く通い、他方チェズレイは祖国で負った傷をいやすことに専念していた。チェズレイにとって『母親』とは複雑で特別な意味合いを持つものだから、モクマと母親の間に首を突っ込むつもりはあまりないのだろう。挨拶のために一度顔を合わせて、それ以降は我関せずと大人しくペントハウスで過ごしている。
母親から渡されたタッパーの中身を皿に移して電子レンジで温める。中身は里芋の煮物だった。
「ああ、これ。この味だよ」
小ぶりな里芋を一つ摘まんで口に放り込むと懐かしい味がした。長いこと口にしていなかったというのに、思い出として染みついているらしい。
「私も一ついただいていいでしょうか?」
じっとモクマの挙動を見つめていたチェズレイがフォークを伸ばす。「いいけど、お前さん大丈夫?」とモクマが心配する声もよそに、ぽいと口に放り込んだ。むぐむぐと咀嚼した後、ふうと表情を和らげる。
「濃い、というよりは甘さの強い味付けだ。子供が好みそうな味ですね」
チェズレイの言葉で、モクマに昔の記憶が蘇った。マイカの里で出される料理は、まずいだとか口に合わないだとかこそなかったものの、実家の味付けとは異なっていた。特に顕著だったのが煮物で、薄味の上品な味付けに子供時代のモクマは物足りなさを感じていた。盆と正月の年二回、実家へと帰るたびに母親は「何が食べたい」と聞いてきた。その返答としてあげていたのがこの里芋の煮物だったのである。幼少期を終え、少年期へと入っても、マイカと沿岸地域での地域開発問題で亀裂が入る直前も、モクマが帰るたびに母親が作ってくれた料理だ。いままで忘れていた。思い出す必要すらなかったから。
「……おふくろにとっちゃ、俺はまだまだ子供だってことかね。こ~んなおじさんになっちまってるのにね」
「これから、今のあなたを知っていってもらえばいいではありませんか。剥き出しのあなたでもいい、お母上に見てほしい部分だけでもいい。何が好きなのか、何を幸福と感じるのか、とんでもない呑兵衛になっていることも、もちろんね」
チェズレイが冷蔵庫の中を眺めて「夕食はミカグラ料理にしましょうか」と声をかける。「あなたにはそれが可能なのですから」と小さく呟いた声も、モクマに届いていた。