(――また、だ)
読みさしの資料に向けていた意識をしばし心の中に沈める。けして表情を動かさないように、私は神経を研ぎ澄ませた。左側後方から、僅かに視線を感じる。じっとりと、肌の表層に絡みつくような視線。害意は感じられないが、よくある――たとえば、私の容姿に見惚れたとか、私を性的に搾取しようと狙っているとか――類とは異なるもの。
「…………」
呼吸が少し乱れたかもしれない。感じていた視線が霧散する。何の変哲もない夜がそこにはあった。私は、引き続き、手元の資料に意識を戻す。この歴史ある街の裏で、静かに蔓延する妙な病の噂。しかしてその実態は、人為的に作られたウイルスもしくは薬剤によるものだ。無辜の民を相手に生体兵器の実験とは、人を人ともみない下衆どもにはほとほと頭が下がる。
「身体の足腰のふらつきによる身体的な阻害、並びに、高熱による思考力の低下、更には――」
「インフルエンザみたいだね」
情報共有も兼ねて、代表的な症状を読み上げれば、少し離れたところで筋トレに励んでいたモクマさんがやってくる。後ろから、ひょい、と資料を奪われた瞬間、モクマさんから汗が滴り私の袖を汚した。
「あ、ごめ、」
「下に何も敷かず懸垂をなさるのは、ご遠慮いただきたいと申し上げたはずですが?」
「シャワー浴びてくるよ!」
言うなり、モクマさんは脱兎の速さでバスルームに飛び込んでいった。程なく、調子の外れた鼻歌が水音に混ざって聴こえてくる。私は、わざと大きくため息を吐いた。
いつからだろう。彼の私を見る視線に、まとわりつくような重さを感じ始めたのは。
初めの頃は違った。オフィス・ナデシコにいた頃に引き続き、私たちは純粋な相棒関係だった。私の立てた作戦に従い潜入したり、モクマさんの技術で抵抗勢力を完封したりした。作戦が完了すれば次の街に移動し、しばしの休憩を挟みつつ、新しい標的を見つけるの繰り返しだった。
バスルームから出てきたモクマさんは、すっかりいつも通りだった。明るく気さくで軽薄なこの中年男性は、勝手にお酒を出して晩酌を始める。誘われたが、私は辞退した。もう少し情報を整理したかったし、時折浴びせられる視線について考察したかったのだ。
(私を殺したいのか?)
視線に乗る感情として真っ先に思いついたのは、殺意だった。だが、モクマさんは誰かを無闇に殺す人ではない。私とは違う。
(何か隠し事か?)
次に思い浮かんだのは怯えだが、違う気がする。
憎しみ、嫉妬、我慢、そのどれもがしっくりこない。結局私は一足先に自室に戻ると、先に休むことにした。睡眠不足は往々にして、私の頭脳を鈍らせる。
全く想定していなかった答えが得られたのは、それから数日後のことだった。
外部から得られる情報では決め手に欠けるため、私は組織への潜入を申し出た。モクマさんに陽動を依頼しつつ、私が単身、内部へ乗り込むだけの単純な作戦だ。
「お前さん、一人で大丈夫?」
「大丈夫か否かは、モクマさんの働き次第ですよ」
私の期待に応え、モクマさんがかなり派手に暴れてくれたおかげで、私はあっさりと目的地に到達した。例の病を引き起こす薬を見つけたので、私はそれを躊躇いなく自らの腕に注射する――。
「チェズレイ!!」
5秒数えるまでもなく、モクマさんが飛び込んでくる。私は素早く注射器を隠した。
「早かったですね。合流予定まで、まだあと10分はありますよ」
モクマさんは答えずに、ずんずんとこちらに距離を詰めてくる。酷くお怒りのようだ。私は極めて冷静に、微笑む。何も問題はないのだと言わんばかりに。
次の瞬間、私の唇は塞がれていた。
「!?」
生暖かいものが口内に侵入する。それがモクマさんの舌だと判った瞬間、息を呑んだ。ぞろり、と蠢くそれは、私の舌の上をなぞり、味蕾をこそげ取りそうなほどだ。念入りに歯列まで舐められ、ようやく解放された。
「何を、なさる、ので、すか、」
息苦しさからの開放に、酸素を取り入れようと呼吸が短くなる。モクマさんは、にこりともしないし謝罪の一言もない。
「毒じゃないのか」
「モクマさん、あなた、何を、……」
ただ突っ立っていた私を見て、何か毒物を盛られたかと勘違いしたらしい。モクマさんの活躍のおかげで、ここには人の気配なんてないのに。
とにかく、予定よりは早いが合流したのだ、脱出しなければなるまい。そのルートも構築済みだ。あとは帰ればいい。私たちが逗留しているホテルへ。一歩踏み出したそばから、地面がぐらりと揺れた。
(ああ、これはまずい)
思ったより即効性が高いらしい。自重に耐えきれなくて、身体が前面にふらりと傾いた。その拍子に、隠した注射器が落ちて音を立てた。モクマさんがはっと弾かれたようにこちらを見た。
「チェズレイ、まさか、お前自分で……?」
どうやらバレてしまったらしい。私は微笑みながら頷いた、その刹那、モクマさんの目の色が変わる。
「なんでそんな無茶をするの」
「無茶、では、ありません、よ」
薬について詳しく知るには、食らってしまうのが確実なのだ。下調べによれば、致死性の成分は入っていない。
足元に力が入らず、立てなくなった私を、モクマさんは軽々と抱き上げる。そして、じっと、私の目を見つめてくる。あ、と声が出た。ここ数日感じていた、身動きを封じるような視線と同じ。
「なんで、そんな無茶をするのかと訊いたんだ」
「その方が、手っ取り早いから……」
頭が少しぼうっとする。生体兵器候補なだけあって、さすがの即効性だ。熱を持ち始めた私に腕を回したモクマさんが、ぽつり、とこぼした。
「どうしたら、お前はお前を大事にしてくれるの」
「?」
「薬を盗んで、成分を解析したらよかったじゃない」
「それでは、時間が、かかり、すぎます」
「お前が回復するのにも時間が要る」
「あなた、一人でも、十分、対応できる――」
「チェズレイが苦しんでるのは、見たくないんだ!」
何故急に声を荒げるのか。私はいよいよ混乱した。返す言葉が浮かばない。この熱のせいか、あるいは。
轍の中の鮒のように、はくはくと唇を揺らすだけの私に、モクマさんは告げた。
「お前を害するものは、たとえお前自身でも、許さない」
「!」
熱に浮かされた頭でも、すとん、と理解できる。同時に、カッと身体が熱くなった。そういうことだったのか、と、全てに合点がいく。あの視線に載っていたもの。執着めいた、欲望めいたもの。じっとりと絡みついて離れないようなものの正体。
――この男は、私に、恋をしている!
何ということだろう。
冷え切った怒りと失望を浴びせられながら、私の心は昂った――芯から、まごうことなき、歓喜に!
ああ!