こいつは珍しい、と心の中だけで呟きながら、モクマは相棒の背中に向けてこっそりと視線をめぐらせた。
セーフハウスにある一室、チェズレイの仕事部屋で、チェズレイはデスクに向かい、モクマの存在に気づいているのかいないのか、振り返ることなく流れるような指遣いでノートパソコンと手元のタブレットを交互に操作し続けている。普段は椅子に座っていても姿勢がよくピンと張っている背筋が、今日は少しばかり重心が前のめりになっており、神経を遣っているのか呼吸が僅かに浅い。今朝シャワーを浴びたばかりだというのに自慢の美しいプラチナブロンドの髪はややくすんで見える。極めつけは、横顔にうっすらと浮かぶ疲労と不快の色だ。
ひとつひとつは些細なことだが、何もかもが、チェズレイの身に起きている不協和音としてモクマの目に映っている。
とはいえそれがわかるのは、この世でただ一人、チェズレイの相棒であり生涯を共にする男である自分だけだろう、という下衆なりの自負もあった。
それほど、チェズレイは自身の本心や弱みを隠すのが上手い。
普段から、モクマのように間近でつぶさに観察していなければ到底見つけることのできない変化でもある。
軽く手元を覗き込めば、チェズレイの視線の先には仕事用のタブレットがあり、鋭く輝く紫の瞳は画面の文字の羅列やグラフに釘付けだ。仕事の思考の邪魔をしないようにと気配を絶ちながら密かに近づいたが、それは失敗だったかもしれない。
普段から仕事をし過ぎるきらいのある男だが、世界征服に向けての次の計画が、構想の段階で行き詰まったのだろうか。それとも、何か他に思い悩むことでもあったのだろうか。チェズレイを見ることにかけては右に出る者はいないが、その心を読むことは出来ないし、心中のすべてを慮ることは出来ない。
それでも……恋しい相手の想いを汲み取ろうと努力することは出来るし、モクマ自身は常日頃そうしたいと思っている。そしてそれを実行することに躊躇いも迷いもなかった。
「チェーズレイ」
「……モクマさん。先程から熱心に私の背中をご覧になっていたようですが?」
「はは、ばれとったか」
「えェ……モクマさんが運んできた香りと共に、ね。いつ声をかけてくださるかと待っていたんですよ」
どうやらお互いに声をかけるタイミングの探り合いをしていたようだ。
「随分と根詰めてるようだけど、大丈夫かい? おじさんの手なら空いとるよ」
「ふふ、コーヒーで塞がっているようですが」
今日はカフェオレではなく、気分を変えて濃いめのブラックコーヒーを淹れてきたのだが、こちらがずっと様子を伺っていたせいで、時間が経過し冷めたくなって風味が落ちてしまっている。最上とはいえないマグを引っ込めて、改めて出直すつもりだった。
「これ? 冷めちまったからこれから淹れ直す……ってちょっと!?」
制止する間もなく、チェズレイはブラックコーヒーの入ったマグを素早くモクマの手から取ると、躊躇なく一口飲み下した。
「ハァ……飲み頃を逃したのが大変悔やまれる味ですが、おかげで落ち着きました。ありがとうございます」
平然とした顔を取り繕い誤魔化すのかと思いきや、不機嫌さを包み隠さず吐息に滲ませるチェズレイに、モクマは思わず笑みを浮かべる。
味が落ちているとわかっていて、それでもコーヒーに口をつけてくれること、それから。
「お前がそうやって苛立ってるとこを隠さず俺に見せてくれるのが嬉しいよ」
「さすが下衆だ、いいご趣味をお持ちですねェ」
「今更だよねえ。お互い散々さらけ出してきた仲じゃない」
「…………そうですね」
毒気を抜かされたような面持ちで独り言のようにごちるチェズレイの肩から、余計な力が抜けていく。
「それで、なんか問題でもあったの?」
「いいえ、取りたてて。計画は順調そのものです。しいていえば、今追い詰めている屑以下の悪党たちの闇の情報と罪状を探っていたところ、内容に不快感を覚えただけです」
「ありゃ、そりゃあストレスが溜まりそう! ……けどお前のことだ、お仕置きのやり方はもう決まっとるんだろう?」
ニヤリと笑って目配せすれば、すっかりいつもの余裕を取り戻した流し目が返ってくる。
「えェ。やはり醜穢な施設ごとすべて爆破するのが一番だと確信しました。ということで、是非お付き合いの程を!」
「うん! もちろん喜んで付き合っちゃうよ! ……ところでさ、普段なら流せることに引っかかったり、いつもよりイライラするのはどういうときか知ってるかい?」
「フッ、聞きましょうか」
「疲れて腹が減ってるときだよ。っつーことで、とぅ!」
モクマはあっさりとチェズレイの手から、マグとタブレット端末を取り上げる。
「仕事のことは一旦忘れてさ、おじさんと一緒にランチ休憩しない?」
「……フフ、下手なナンパのようですが、他ならぬモクマさんのお誘いです。喜んで」
ふわりとチェズレイが微笑んで了承し、デートの誘いは大成功だ、とモクマも満面の笑みを恋人に向けた。