No.27 海のなまえ

ちかちかと、視界とあたまで光が明滅している。
昇って、昇り詰めて、落ちる。五十一階から飛び降りた時と同じなのかもしれないけれど、必死であまり覚えていないから、これが比喩として正しいのかはもはや知りようがない。いや、知ったからといってどうという話ではないのだけれど。
考えがまとまらない。泡のように、生まれてはぱちんと弾けて消えてしまう。熱に浮かされて、すべての輪郭がぼんやりとしている。
「――あァ……、モクマさん……」
「ん? どしたの」
汚れた身体を拭おうと、タオルを取りにほんのすこしだけ、熱が離れる。
だけどそれでは、背を預けたしわくちゃのシーツの波間に溺れてしまいそうで。名前を呼んで、ふらふらと手を伸ばすと、すぐに掴んで抱きしめてくれる腕がある。
全身、べたべたのどろどろで、汗まみれで。きもちが悪いはずなのに、それより間近で聞こえる鼓動を求めて擦り寄ってしまうのだから、本当にヤキが回っている。
「モクマ、さん……モクマさん」
「うん、なーに」
幼子のように繰り返す呼び声に、掴んだ手を持ち替えて、指を絡めて、いたずらに握ったり開いたりする、その力の、声の、やわらかなこと。
情交のあとを色濃く残す湿った空気と靄のかかった思考の中で、密着した身体から伝わる熱と、間近の距離にぼやけて見えるふるい傷跡。
あァ、また。ぎゅう、と、痛む場所がある。
くるしくて、酸素を求めて口が開く。
「モクマさん……あなたが、離れると。いいえ、こうやって、抱きしめられていても――、不意に言葉をもらったとき、笑顔を見たとき……心臓がたまらなく締め付けられて、目の奥が熱くなって、息が、できなくなることが、あるんです」
ぶ厚い肩に額を寄せて、すぐに溶けてなくなってしまう言葉をかき集めて、かためて舌に乗せる。
「……この、感情は、一体、なんなんでしょう」
割れた腹筋を手のひらでなぞって、たどり着いた左の胸に押し当てて、心音に触れる。
願わくば、彼にも、同じ痛みが在りますよう。
これまで、人に答えを求めるなんてことなかった。そんなことしなくとも最適解は導き出せたし、そもそも欲しい答えをくれるひとは、誰も彼も背を向けて遠くに行ってしまったから。
だけど、今は、聞きたかった。ひとりでは、わからないと思った。
教えてもらうなら、彼の口からがいいと思った。
「……」
少し、間があった。熟考するほどはかからず、すう、と、息を吸う音が耳に届いて、
「……うーん、わからんけど、俺もおんなじようになる時はあるから。俺の話を、するとねえ」
酔っ払ったように、ゆらゆら揺れる頭の中に、響いて心地いい、低い声。
目を閉じて、じいっと耳を澄ませると、
「それって、恋っちゅうやつ、なんじゃないかなあ、って……」
「――」
ぱっ、と、目が開いた。顔を上げると、待っていたとばかり、覗き込む琥珀の瞳とかち合う。
こちらの表情を見て、もとからやさしく下がったまなじりが、照れたように細められた。
「あ、はずした……?」
「…………」
はく、と、唇が開閉する。
胸の痛みが、増していく。水面に石を投げこんだよう、波紋が、輪っかの形をして幾重にも連なっていく。
心が、激しく揺さぶられる。いよいよ息ができなくて、喉があつく焼けて、行き場のない感情が、言葉にすら成れなくて――、
ぼろり、と、ついに両の目からこぼれ落ちた。一度泣いてから、もう、すっかり涙腺はばかになってしまったようだった。すん、と、鼻をすする間抜けな音が、静かな暗い部屋にこだまする。
涙に濡れた、きっとみっともないだろう顔を、抱き寄せて背を撫でて、隠してくれたらいいのに。この男ときたら下衆だから、黙ったまま、微笑んで、じっと見つめるばかり。
次の言葉を、待っている。こちらにそんな余裕がないこと、知っていながら。
悔しい。このまま物言わぬ貝になってしまいたいが、自分ひとりでは辿り着けなかっただろう気づきを得られたことは確かなので、今日くらいは折れてやろうか。
だって、そうか、恋、恋ときたか……、
「私の知ってる恋と比べたら、随分と生ぬるくてあまったるいものだ……」
憎むもの。執着。燃えるような、追って追って、追い求める感情。それが私の知る恋だった。
呆れ混じりのかすれた声に、にじむ視界の向こうの生涯の相棒はようやく満足したみたいで、ふたたび強い腕で抱き寄せて、鼓動を重ねて囁いた。
「俺たち色でいいじゃない、あまったるい恋もさ、また風味、っちゅうコトで」
「……フ、すぐ酒の話で片付けようとするんですから……」
触れ合った身体が熱い。求めあって、くっつきあって、夢とうつつの境界が曖昧にとろけていく。
深い夜の海で眠りに落ちるさなか、聞こえる声も、返す声も、胸焼けがするくらい、甘ったるい恋の響きをしていた。