No.14  l’amour c’est être stupide ensemble.

――あなたが囁いたのは、私の耳じゃなく私のハート。
あなたがキスしたのは、私の唇じゃなく私の心。

さり、とチェズレイの指がモクマの顎髭を撫でる。
一日の終わりともなれば、朝に整えたはずの髭も無精髭候と言った姿に戻っていて、指先に抵抗感を覚えた。

「……熱い告白だねえ」
「ふと聞こえたもので。
自身と愛を貫いた、悲哀の銀幕スターの言葉です」

もはや恒例となった晩酌の途中、グラスを置いたチェズレイを注視したほんの瞬間。
突拍子のない行動――はいつものことだが、熱烈な言葉と愛撫のような行為に、モクマは瞠目した。
人差し指がくすぐるように顎先から離れて、チェズレイはつけっぱなしのテレビにモクマの視線を誘導する。

かつて人気を博した女優の、ドキュメンタリー番組だった。
言葉こそ異国のもので分からなかったが、銀幕スターの光と影、といった構成だということは察せられた。

いつものように低めのグラスに注がれたどぶろくを前に、「愛、か」と噛んで含むように呟く。
モクマの脳裏に、あの鼠色をした空の国が浮かぶ。吹きすさぶ吹雪の中、愛に生きた、愛に生きる、母子の、俺の、俺たちの、物語があった場所だ。
あの時、あの場所で、自分たちが紡いだのは確かに愛だった。友愛、恩愛、親愛、情愛。それがどんな形であれ、俺たちはそれによって結ばれているのだと、離れがたき二人なのだと、思い知った。
それはきっと相棒も同じだ。モクマが思い知ったように、チェズレイもまた、彼からの愛を思い知らされたのだ。
ずいぶんと遠回りをして得た答えだったかもしれないが、それも必要なことだったのだと納得している。

そんな感慨に耽るモクマに、チェズレイが開口する息遣いが聞こえ、再び視線を彼に向けた。

――愛はガラスのようなものだ。
いいかげんにつかんだり、しっかりつかみすぎたりすると割れる。

と、いうことわざがあります、とチェズレイは続ける。

「愛……など、不安定で不確かなものでしょうに」
「お前さんのガラスは相当分厚い。
ちょっとやそっとで割れる程、繊細なもんじゃないだろう」

現実に引き戻されたモクマは、その言葉を脳裏で反唱する。
無遠慮に扱っても、逆に丁寧に扱いすぎても、壊れてしまう。それほどまでに扱い辛いものだという意味なのだろうが、どう取り扱ってもチェズレイのガラスは壊れそうにないなと想像し、笑った。

一方で、情緒のない男だと、チェズレイの眉間には皺が寄る。だが、否定はしなかった。
それに、チェズレイの本題はそこではなかった。
きっかけはBGM代わりの番組だが、栄華を築いた女優の言葉と、灰白の国のことわざ。
他人の言葉を借りてきたチェズレイの思惑はひとつだった。

モクマはひとしきり笑った後、不満げなチェズレイを見て、考え込む表情を作る。
目線を上げ下げし、あーとか、うーんとか、何かを考えているのか、それとも言葉が浮かばないのか。チェズレイは胡乱気な面持ちで続きを待った。

「確か……」

――恋愛と戦争は手段を選ばない。

「だっけ。そういう男でしょ、お前さんは」

含みを持たせ、もったいぶって切り出したのは、劇作家の言葉だ。
単純に会話の返しとして、そしてこれは、チェズレイの思惑を探る言葉だ。

言葉遊びは二人の得意とするところだが、その実、他者との関係を測ることが不得手な二人にとって、身を護るための術でもあった。
そんなものもう必要はないというのに。それでもこじれて燻った人生を送ってきた二人には、なかなか抜けない癖のようなもので。
そうして興が乗れば、その言葉遊びは欲しい言葉を相手から引き出すゲームになる。悪癖とも言える、二人の日常だった。

チェズレイは感心したような、それでいて未だ不満そうな声色で息をつくと、一拍置いて言葉を返す。

「all’s fair in love and war. あなたにはそう見えますか」
「鍾乳洞での激しい荒療治、忘れてないよ?」
「あの最悪な吹雪の山小屋もね」

二人の関係性を決定づけた、切っても切れない対照的な出来事を持ちだした返しに、モクマは確信した。
同時にこの駆け引きに乗ったと、景気づけの一杯よろしくグラスを引き寄せる。

「意趣返しですか」
「何のだい」
「白々しい」
「先に仕掛けたのはお前だろう」

いわば愛の応酬だ。
同道と言う約束の名の下、二人で歩んだ道を、名言や格言でなぞらえているのだ。
そしてこのゲームのジョーカーは「愛」だ。
その言葉をお互いに引きずり出そうとしている。愛している。を。

言いながらグラスを取ったモクマは、一口、二口と中身を嚥下する。
再び置かれたグラスには、数センチほどのどぶろくが残るのみ。
唇に乗った雫を舐め取り、モクマは口を閉じる。じっとチェズレイを見つめて、柔和に目尻を下げた。

二人の間には、テレビから流れる音声だけが漂っている。しかしそれは、二人にとって静寂に等しかった。
この言葉遊びの裏で、どちらが先に白旗をあげるのか。二人はただただ、相手の出方を楽し気に窺っている。

「ねェ、モクマさん。
ここには二人しかいないのに、こうも回りくどい会話をしなければなりませんか?」
「それはお互い様だろう。たった一言だよ、チェズレイ」

お互いに同じ一言を引き出すための、他人の言葉に隠した駆け引き。
端から見れば、なんとくだらなく、ばかばかしいやりとりだろう。
そんなこと、二人ともが理解していた。けれども、始めた遊びは後に退けず。
そうしてもとより、この遊びを二人は楽しんでいるのだ。

「愚かですよ」
「二人ともね」

意地と強がりと気恥ずかしさ。全てを乗せて、精いっぱい大人のやり取りを、嘲笑めいた表情で取り繕う。
ぽつんと残されたグラスに、手がかかることはもうないだろう。
他人の言葉を借りた愛の応酬に、二人の影が重なっていく。

いよいよ一塊となったシルエットの中で、ジョーカーを引いたのは果たしてどちらだったのだろうか。