ごくり、と喉の曲線が上下する。唇の内側では味わう舌が艶めかしく動いているのだろうと想像させる数秒。焦らすように吐き出された吐息はしっとりと甘いに違いない。
芸術的とも官能的ともとれる絵画の中心で、絶世のモデルはモクマに笑いかけている。つられて笑いながら、有頂天から降りてこられない心持ちでモクマは実態を持った幸福を見つめるばかりの日々である。
母を訪ねる名目でモクマと相棒のチェズレイがとある南の国に訪れてはや一週間。ふたりの日常のBGMになっていた銃声や爆発音はいまや波音と鳥の鳴き声に置き換わり、ゆったりと流れる空気を味わう余裕すらある日々は場所も相まってまるでハネムーンのよう。さざ波がゆっくりと運んできた遠い土地の風が、しゃらしゃらとチェズレイの長い髪を奏でる音も新鮮だ。水平線に沈む太陽が互いの輪郭の色をゆっくり変えていくのだって。
同道して二年、忙しなく生きてきた二人にとって初めてとも言える長期休暇、浮かれるには充分なのだ。なにせ、
「…潮風よりも余程張り付きますねェ、あなたの視線。気を抜くと穴が開いてしまいそうだ」
「や、ついつい美人さんに目が吸われちまって。不躾だったかね」
「いいえ?あなたに見られるために丁寧に整えているのですから、どうぞご存分に」
「どーもね。気前の良い相棒を持って、おじさん役得だよ」
なにせ、ふたりは恋をしている。生涯同道する誓いを立てた、互いの相棒に。
これまでだって重く濁った複雑な感情を腑分けしないまま全て抱き込んで丁寧に接してきたつもりだったが、先日のヴィンウェイでの出来事は決定的にモクマとチェズレイの間の空気を塗り替えてしまった。
もしかしたら恋に似たところはあるかもしれないという自覚は互いにあって、けれど別に恋でなくても良かった。共に生きるための約束はどこか清廉で、恋なんてレッテルを貼って生臭いものにしなくても良い、なんて斜に構えていた。二人の間だけに成立する名前のつかない唯一無二の関係こそが誇らしくて。
それがどうだ。一度堰を切れば無様にエゴと欲に塗れて、絶望して、怒って、泣いて、喜んで。自分がどれだけの質量で想っているかを相手が知らない事が許せず、共にいるためになりふりも構わず、踏み込まない行儀の良さは失われ、望まれずとも心の奥底を暴かずにはいられなくなった。清廉さは音を立てて崩れ、二人は清くある必然性を失ってしまった。これだけみっともなく相手を想う気持ちを互いに曝け出して、今更恋じゃなくてもいいだなんて御為倒しもいいところ。
つまり、ふたりは今世紀最大級に浮かれているのだ。好きな相手が自分を好いてくれているという真実に。
砂糖を投げれば蜂蜜がかかって返ってくる言葉の応酬。恋ってすごいと、思春期の少年少女以上に深く深く実感し、短くない人生の中でも一番楽しい時期なのである。
その上お誂え向きに暖かな陽気の南国で、毎日二人きりで休める最高級のホテル暮らし。ピーカンの青空だけでなく、夕暮れには黄色と紫のグラデーションにも祝福されて、「まるで」どころか正真正銘のハネムーン真っ最中なのだった。
「あれ、もう空になりそうだね。気に入った?」
「白い濁りはどぶろくに似ていると思いましたが、これはとても甘く飲みやすい。あなた、バーテンダーとしてもご経験が?」
「そんな上等なもんじゃないよ、海の家でバイトした時に教わったヤツ。シェイカーも上手に扱えないもんで」
チェズレイのグラスが空になったタイミングを見計らって、モクマはキッチンへ立った。並んだ瓶をいくつか、目分量で傾けた先は情緒もなくミキサーだ。パイナップル・ジュースにココナッツ・ミルク、ラム酒の配分は少なめでその分風味をシナモン頼り。氷を含めてミキサーにかければ南国に似合いのカクテル、ピニャ・コラーダの完成である。キッチンに予め置いてあったフルーツバスケットからオレンジを飾り、モクマはチェズレイの待つバルコニーへ戻った。
飲まなくても浮かれるばかりなので少し酒のせいにでもするかと晩酌を始めたモクマにチェズレイは付き合ってくれている。療養中に度数の高いどぶろくはいかがなものかと見た目だけでも似たようなカクテルを渡せば気に入ってくれたようだった。
「これね、花なんか飾るとかわいいって喜んでくれるお客さんも多くてさぁ」
「おや…。私もまんまと悦ばされてしまいますねェ?」
「なっ、なんか響きがやらしい気が…!?」
バルコニーに植わったハイビスカスを一輪摘んだモクマは、グラスに飾ってやろうと手を伸ばしかけ、やめた。チェズレイにからかわれたせいもあるが、綺麗好きのチェズレイはよくよく考えれば自然の花を飾るなど嫌がるだろうと気付いたからだ。
けれど、モクマが手を引っ込めたのを見てチェズレイは眉を下げ瞳を潤ませた。
「…喜ばせてくださらない?」
「いやいや、ばっちいからね。おじさん配慮が足りんかったね」
「ほんの数日前、あなたの汚らしいものを口に含んで見せたのに?」
「手ぬぐいね、ははは…」
摘んでしまった花を指先で弄びつつ、モクマは乾いた笑いを漏らす、しかなかった。チェズレイのわざとらしく淫蕩な口ぶりは、こういう時心臓に悪い。何せ以前と違っていやらしさに実感がある。流しにくいし、掘り下げたくなるのが困りものだ。相手は療養者なので勿論モクマに我慢する以外の選択肢はないのだが。
「…モクマさァん」
じっとりとした蛇のような目つきを可愛らしいと思うのだから、重傷だ。誘っているのか甘えているのか、後者だろうと判断して、どちらにしても「あの仮面の詐欺師が!」というむず痒さにモクマの顔は赤くなる。唯々浮かれてそのうえ酔っているチェズレイは、やはり浮かれて酔っているモクマにとって愛おしすぎた。
「だ、だめっ…!おじさんの理性を試さんといてぇ…っ」
「フフッ!無敵の武人が聞いて呆れますねェ」
絞り出すような声と共に降参の手をあげたモクマに満足したのか、チェズレイは睨んでいた瞳を綻ばせて笑った。ハイビスカスが飾られないままのグラスを傾けて、ごくりと一口。再度動くチェズレイの喉仏に、唇に、舌に、何度でもモクマは目を惹かれてしまう。ちらりと一瞬寄越された視線があからさまにモクマの目を意識していて、モクマを有頂天の先へまた押し上げようとしていた。
相手を一層恋に叩き落とす為の切った張ったは、世界征服の休息に何とも丁度良く平和だ。普段策謀に使われる頭脳をたったひとりの為にとろかす快楽はなにものにも代えがたい。それは、チェズレイにとっても、勿論モクマにとってもそうで。
今日のモクマはチェズレイに切られてばかりの負け越しだ。負けてみせるのも楽しいが、年上の矜持としてせめて一手くらいは意趣返しをしたい。
死角から、手を伸ばす。モクマを信頼したチェズレイは警戒しない。風に揺れる長い髪を掻き分けて、形の良い耳に優しく触れる。
「お、似合うねぇ」
折角摘んだ花をそのまま捨てるのも惜しかった。飾られたハイビスカスは華やかで、目元に咲いたメイクも相まって一層美しく咲き誇る。
そしてどうやら、勉強熱心なチェズレイはきちんとモクマの行動の意味を知ってくれていた。
一瞬呆けた後ほんのり耳を赤く染めて、熱を誤魔化すようにまた一口。
左耳にハイビスカスを飾ったチェズレイは、今度ははにかみながらモクマから目を逸らしていた。