No.25 恋は曲者、恋は闇

「恋は曲者、恋は闇、ってね」
「おや、初めて聞く格言ですね。曲者に闇とは、なんとも不穏な響きではありませんか。その心は?」
「どっちも、恋すると理性や常識から外れた、とんでもないことをしちゃう、ってこと」
「フフ……違いない」
人気のないビルの屋上で、声を潜めて会話する影が二つ。彼らが見下ろす向かいのビルは、チェズレイが次の標的と定めた組織の本拠地だった。
盗聴器が届けてくれる室内の音声は、深夜も近いというのに、随分と騒がしい。
最近組織に入った一人の女を巡って、No.1とNo.2が争っているという噂は耳に届いていた。それがこじれにこじれて今宵、組織を二分する抗争に発展している真っ最中だった。
「ツートップは仲のいい兄弟で、ファミリーの結びつきも強いって話だったのに、わからんもんだね。でも、その女性って確か……」
「ええ。潜入捜査官ですね」
「っちゅうことは」
「ほら、ご到着ですよ」
眼下では、バイザー付きのヘルメットとボディアーマーを見にまとった全身黒づくめの男たちが、次々と建物の中に入っていく。ほどなく、室内の騒ぎは最高潮に達した。
「こりゃ、しばらくは近寄れん。やることなくなっちゃったねえ」
「取引相手の情報は奪えませんでしたが、これで組織の活動は止まります。あとのことは、警察に任せましょう。それにしても、私にも想定外でした。まさかこれ程まで、恋に狂うのが早いとは、ね」

潜入をやめ、手ぶらで帰る帰り道。今夜も運転手を務めているのはモクマだった。助手席のチェズレイは、盗聴器の音声に加えて、タブレットで路上の監視カメラの映像や警察の無線を拝借して、顛末を見届けている。
「死者はゼロ。警察は上手く立ち回ったようですね」
「そりゃあ良かった。ところで、チェズレイさん」
「はい、モクマさん。何かご提案が?」
「二つ先の交差点、帰るなら左なんだけど、右に曲がった先に、星空がすんごく綺麗に見える場所があってね。ちょいと、寄り道して帰らない?」
「おや、デートのお誘いですか」
「うんっ。誘われてくれる?」
「フフ……どうしましょうか。もう夜も遅い」
「こりゃ、もう一押しかな。あ、そうそう『恋は闇』の方には、もひとつ意味があってね。恋の逢瀬には暗闇が好都合、なんだってさ。ほらほら先人もこう言ってることだし!」
「最近の監視カメラは高性能ですからねェ。闇夜とて隠れ蓑にはなり得ません。ほら、こんなにもはっきりと映っている。この顔は、弟の方ですね」
信号待ちの間に、チェズレイが見せて寄越したタブレットには、暗い路上で抱き合う男女の姿が映っている。過去の監視カメラ映像を引っ張り出してきたようだった。裏社会に生きる人間が、このような証拠を残すなど迂闊にもほどがある。それでも、触れずにはいられないのが、恋の病か。
「あちゃあ」
「音声はありませんが、口の形から推察すると…『もう足を洗う。一緒に逃げよう』…でしょうか」
「……そうか」
静かに動き出した車内で、モクマは思案に沈む。他者を傷付けて生きてきた過去は消えない。しかし、真っ当に生き直す気があったのなら、今回の逮捕は絶好の機会となるかもしれない。女の正体を知ってなお、同じ気持ちでいられたら、の話だが。
「あァ、モクマさん。次は右へ」
「……っ!」
不意打ちに、モクマは目を瞬かせた。急に、すり、とチェズレイがモクマの太ももに手を滑らせてきたのだ。緊張する筋肉の強張りを楽しむように、細い指が躍る。くすくすと笑う声が、優しくモクマの耳に響いた。
「時には、理性や常識から外れたこともしてみたくなります。私も、恋する男の一人、ですから」
恋に狂って道を違え、身を滅ぼす者もいれば、新たに生き直す者もいる。果たして、二人の男と一人の女はどちらの道を辿るのだろうか。
モクマは今すぐチェズレイの手を握りしめたい気持ちを、ハンドルを握る指に力をこめることで抑え込み、安全運転で相棒を星空の元に届けるべく、右へとハンドルを切った。