モクマは己の全身を手のひらでバシバシ叩きながら青褪めた。
(……ない!)
しまっておいたはずの大事なものが見つからず、全身からドッと汗が噴き出す。
午前中はチェズレイの表の事業での打ち合わせに同行し、昼から分かれて一日限りのショーマンとしての仕事に出向いた。それも日が暮れる頃には終わり、夜は二人で軽く飲もうと約束していた。モクマはそこで、あるものをチェズレイに差し出すつもりだったのだが。
(ない、指輪がない!)
今日はモクマとチェズレイが空の上で初めて出会った日である。普段は誕生日以外の記念日をさほど重視するたちではないのだが、少し前に日付を思い出したとき、今年は『祝ってもいいかも』と気まぐれを起こしたのだ。モクマの寂しい懐でも買えるような安物とはいえ、指輪を選んだのは形に残る何かがあってもいいだろうと考えたからだ。いつもは互いに何かを贈るとなると酒のような消え物ばかりになりがちなので。
モクマの頭の中では〝二人で飲みながらさり気なく指輪を差し出すクールな俺〟の姿を思い描いていたのだが、このままでは格好がつかない。
幸い、チェズレイと約束した時間までは若干の余裕がある。合流する前に見つかれば何も問題はない。ひとまず直前までいたショーの現場に戻ってみることにした。
先程までショーをしていたのはとある商業施設の広場だ。係員に事情を説明し、更衣室兼控室と、念の為舞台があった周辺も探してみる。忘れ物の届け出がなかったかも尋ねたが、それらしきものは見つからなかった。
ここで着替えたときに落としたのが最も可能性が高いと思ったのに当てが外れてしまった。となれば、チェズレイに同行した際に取引先で落としたのだろうか。どうかそこにあってほしいと祈りながら取引先のオフィスに向かう。
けれど日も暮れたこの時間帯、オフィスはすでに営業時間外であった。裏口の守衛室にはまだ人が残っていたため、落とし物がなかったを尋ねる。
「あの〜、午前中こちらにお邪魔した者なんですが、オフィス内にこんくらいの小さい箱を落としちまった可能性があって。それっぽいものこちらに届いてないですかね?」
「うーん、こっちにゃ特に来てないですねえ。会社ん中で保管してるかもしれないんで、明日聞いてみますよ」
「明日ね……ハイ」
初老の守衛にそう言われて、モクマはそれ以上食い下がれなかった。中を探させてくれませんか、本音ではそう頼みたい。だが社員が不在のときに外部の人間がそんなことを言って侵入を果たそうとすれば明らかに不審者である。下手なことをしてチェズレイの野望に瑕疵をつけるのは本意ではない。今日という日にこだわりがあるのはモクマだけで、実際のところ明日でも困ることはないのだ。気づけば約束の時間も迫っているし、この場は諦めざるを得なかった。
待ち合わせ場所であるホテルの上層階のバーラウンジに行くと、相棒は既にボックス席に通されてモクマを待ち構えていた。モクマは何事もなかったかのようにへらへらとした笑みを顔に貼り付けて、L字ソファーの斜め向かいに座る。
「先に飲んでてよかったのに」
チェズレイはまだ注文していないようで、テーブルにはグラスがなかった。
「私も着いたばかりですし、そもそもモクマさん、私が一人では飲まないことをお忘れで?」
「忘れちゃいないよ、ちょっとしたネタ振りじゃない」
モクマもチェズレイも、本気ではない言葉をあえて投げかけて相棒との会話を楽しむのを好んだ。チェズレイはわざと困ったような顔をしてモクマに言葉を投げ返す。
「あァ、酷い人だ。私が酔っていた方が好都合なのですね」
「そうね、そしたらおじさん、介抱する振りしてお前さんをホテルのベッドに連れ込めるもんね」
無論、介抱するしないに関わらず二人は元々同室である。
「そして私が寝ている隙に指輪をはめて、目覚めた私の反応を楽しむのでしょう」
モクマは笑顔のまま固まった。チェズレイがジャケットのポケットから小さな箱を取り出してテーブルに置いたからだ。それはまさしく、モクマがここに来るまでの間ずっと探していた、失くしたはずの指輪のケースだったからだ。
「なんで、それ」
上手く喋れないモクマを見て、チェズレイはクスクスと笑う。
「午前中訪問した得意先で、あなたこれを落としたのに気づかなかったでしょう。先方が連絡をくださったので、私が預かっておきました」
「やだー! おじさんはずかしー!」
モクマは思わず両手で顔を覆った。サプライズのつもりで用意したのに、失くした挙げ句にチェズレイへと筒抜けになってしまうなど、格好悪いにも程がある。
「あなたの格好がつかないのなんて今更じゃないですか」
「やめて心を読まんといて」
だが指摘も最もで、モクマはしょぼんと肩を落とした。チェズレイは悄気げるモクマを尻目に、店員を捕まえてシャンパンを二つ注文する。
「それで、モクマさん。仕切り直しはしてくださらないんです?」
「……へえ?」
モクマが顔を上げると、チェズレイはまた困り顔でモクマをじっと見つめる。
「あなたが私の為に選んでくださったんでしょう? 少しのミスくらいいいではありませんか、早くあなたの思い描いたシチュエーションを再現してください」
チェズレイが指輪ケースをモクマの手元に滑らせる。それをキャッチして、モクマは表情を引き締めた。タイミング良く、注文したシャンパンが運ばれてくる。
「チェズレイ。俺とお前が出会った記念日の祝いに、これを受け取ってくれないか」
「ええ、喜んで」
チェズレイが手袋を外して差し出した右手の小指に、モクマが指輪を通す。サイズは訊かなかったが、観察していてこのくらいだろうと推測していたとおり、チェズレイの小指にピッタリとはまった。小指を選んだのは、二人にとって大切な、同道の約束を契った指だからだ。
「俺たちが出会った奇跡に乾杯」
自分でもちょっとクサいなと思いつつグラスを掲げると、チェズレイもグラスを持ち上げて乾杯に乗ってくれた。
「なんか俺、今改めてお前さんのこと好きだなーって思った」
格好がつかないのを承知の上で相棒の茶番に付き合ってくれるチェズレイの度量に、モクマはずいぶんと甘やかされているなと思う。
「私も、わざわざ記念日を祝おうとするあなたの愛嬌、好ましく思いますよ」
「きゃっ☆ 俺たち相思相愛だねっ! 知ってるけど」
「そうして茶化すところは減点ですね。0点」
「厳しい! もっと優しくしてっ」
大仰に嘆いて見せてから、モクマとチェズレイは顔を見合わせて笑った。きっとこれからも、些細なきっかけで相棒の良さを再認識して惚れ直すのだろう。何度でも恋ができるなんて、この先の人生は濃いものになりそうだなあと予感した。
「さて、二人の出会いの記念なら私だけが貰うのはフェアではないですね。モクマさんにも指輪をオーダーしなくては」
「明らかに値段が釣り合わないからやめよう!? ね!?」